「どこに行くのか」ヨハネによる福音書14章1~11節

風薫るさわやかな五月を迎えた。時節柄、中々映画館に足を運びにくい状況であるが、先月末、26日にアメリカでアカデミー賞の授賞式が行われた。主演男優賞を受賞したアンソニー・ホプキンスは、これまでの受賞者の中で最高齢であったが、名前が呼ばれた時、アメリカから遠く離れた故郷のウエールズで、ぐっすり就寝中だったらしい。今週はやはりアカデミー賞がらみの新聞記事が、多く目についた。ひとつ、紹介したい。

遊牧民を表す「ノマド」がポストモダン思想のキーワードとして注目されたのは1980年代だった。仏思想家ドゥルーズらは、画一的・閉鎖的な定住民とは対極的な思想や生き方を示すのにこの言葉を用いた。ノマドロジーとは権力のくびきを脱し、あらゆる境界を自在に超えて多様性を生きる新時代の思想を表していた。だがその思想的未来像は、グローバル経済が人々を故郷から切り離し、世界を放浪させる時代の到来とも重なっていた。それから数十年、グローバル経済はその本拠の米国でもかつての中間層を分解させながら、周縁部に放浪の民を作り出している。今日、ノマドとは車上生活をしながら、季節労働の仕事を求め移動をくり返す米国の高齢労働者をいう。中国出身のクロエ・ジャオ監督の映画「ノマドランド」が米アカデミー賞の作品賞や監督賞を受賞した(4月27日付「余禄」)。

「ノマド」とは、家畜を飼育して生業とする「遊牧民」のことであった。近年はITをツールにして、ネットにつながる所ならどこででも自らの仕事場(オフィス)とし、国内外に働きの場を転々として、組織に縛られず、自由な働き方をする人々を指していた。最近では「ワ―ケーション(遊び先で仕事する)」という働き方も口にされている。しかし、現代の経済のあり様に強いられて、新しい「ノマド(放浪の民)」が生み出されたのである。経済が人間を住み慣れた故郷から追い出し、追われた人は車の中で生活し、移動を繰り返しながら季節労働の仕事に携わる。しかも彼らは高齢の人たちなのだという。

聖書の人々は、自らのことを「寄留者(よそ者)」として意識していた、パレスチナの諸都市の周辺部で、小さな家畜を飼って、小規模な農業を行う、つまり生きるためにできることは何でもする人々であった、と考えられている。都市に住むのではなく、そこから離れ、距離をおいて暮らす生活は、半ば意識的に、半ば強いられて、生まれたものであった。都市に対する義務(納税)はないが、そのかわり保護も与えられない、中途半端な立ち位置であるが、映画「ノマドランド」で描き出された風景は、時代こそ違え、聖書の人々の生活と二重写しのように見える。

今日の聖書個所は、ヨハネの教会の「ノマド性」をよく物語っている。今日のテキストのキーワードは、ひとつは「場所」、もうひとつは「道」である。私たちは、どこに行くべきか。自分の身の置き所はどこにあるのか。そして、そこにはどうやったら行くことができるのか。ヨハネは明確に、人生は「旅」であり、生きることは「動くこと」だと認識している。「ノマド」はユダヤ人ばかりではなく、ギリシャ人も、初代教会に集った人々は皆、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、「ノマド」としての側面をもっていたのである。キリスト者として、教会の群れに加わる前には、ひとり一人に帰属する集団、地域共同体があった。教会に連なるとは、そうした「故郷」と呼びうるような地縁血縁で結ばれた場所に背を向けて、出て行くことなのである。教会に連なることで、キリスト者は(キリストによる)大きな自由を獲得したが、同時に、地域共同体の堅固な絆を失ったのである。それが「迫害」という形で露わにされたのである。

1節に「心を騒がせるな」という主のみ言葉が語られている。「動揺する、心配の余り気が動転する様」を語るものだが、初代教会に集められた人々の心情を、的確に示唆している言葉であろう。まだ誕生したばかりの赤ん坊のような教会である。迫害や地域からの疎外によって、教会は大海の中に、ひとり投げ出されたように置かれている。時に激しい嵐で大波に見舞われる。先行きが見えず、はっきりとしない雲行きの中では、不安が募り、心がしたたか動揺するものである。これからどうなるのか、どこに向かっていくのか、そもそもどこを目指せばよいのか。目指すべき、目的の場所はどこか。古のイスラエルの人々が、荒れ野を彷徨った時には、モーセがいて人々を「乳と蜜の流れる地」へと導いてくれた。私たちに示される場所は、どんな所なのか。

2節「わたしの父の家には、住む(場)所が沢山ある」。「父の家」つまり「神のおられれる所」には、「住む場所」が沢山ある。この「住む場所」と訳される用語は、英語の「マンション」に相当する言葉である。もっとも「マンション」とは、この国でいうところの「集合住宅」のことではない。この時代のメガロポリスであったローマの都には、ローマン・コンクリートによって建造された日本型「マンション」も多く建てられ、4階建ての規模のものまであった。現在と違うのは、最上階が最も安価であったということ。なぜなら、重い水を汲んで、上まで運ばなくてはならないからである。現在でも電気が止まれば、同じ憂き目を見る。

ここでは「大邸宅」のことである。ある研究者は、「保養地などでゆっくりと滞在できる場所、持続的に長期滞在が許される場所」と解説している。つまり、「気兼ねなくいつまでいてもいいよ、と言ってもらえる場所のことである。そしてこの場所は、「使徒」とか「弟子」とか、一握りの選ばれた特別の人が招かれる、ところではなくて、その気になれば誰でもここを訪れ、腰を下ろし、寛ぐことの出来る場所なのである。そして主イエスは「あなたがたのために場所を用意しに(前もって)行く」と、チェックイン、ルームメーキングまで手配される、というのである、何と至れり尽くせりでありがたいことか。

但し、問題は、そこにどうやって行くことができるのか。今度は「道」の問題である。ローマ人は優れた土木技術者であり、ヘレニズム世界に縦横に街道を整備した。その総延長距離は、現在のアメリカの高速道路網よりも長いと言われる。ローマ人の作った街道は、現代でも使われているが、元々ローマ軍の歩兵が、いち早く現場に行き来できるためのインフラであり、そこから「すべての道はローマに通じる」という諺が生まれたのである。ローマに通じる道ならば、街道を進めばよかった。ローマの街道を歩めば、必ず目的地ローマに到着できるのである。それでは神の家に至る道は、どこにあるのか。

主イエスはこう言われる。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。つまり主イエスご自身が道となって下さり、その道を歩めば、どんなに迷っていても、道草をしても、途中で疲れて休んでも、遅くとも、いつかは神のおられるところに、たどり着く、というのである。

主イエスご自身が「道」であり、そこを歩むとはどういうことか。7節「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる」。主イエスを知るなら、「知る」とは「共に生きること、身近にふれあうこと、食卓を共にすること、語ること、語り合うこと」等の諸々の近さを表す用語である。主イエスを身近に、共に生き、み言葉を聞くなら、神の「真実」(ほんとう)が示され、あなたの内に主イエスの「命」が宿るだろう。「主「イエスの道は、神へと通じる」のである。

前述した映画『ノマドランド』についてもう少し語ろう。経済的な事情で家を手放し、車で旅をしながら生活する六十代女性の話である。米国にはこうした暮らしをする人が増えていると聞く。仕事は移動先で見つける。頼りない浮草ぐらしをつい想像してしまうが、そうではなく、主人公はその生活の中から前向きに自然や国を見つめ直そうとしている。ノマド同士の助け合いもある。「ホームレスじゃない。ハウスレスなの」。そんな主人公のせりふがあった。「ハウス」という建物はないが、「ホーム」という「人間的な営み」はあると言いたいのだろう(4月27日付「筆洗」)。

「ホームレスじゃない。ハウスレスなの」。現代の消費社会が生み出した社会の矛盾である。経済によって家を奪われる人々がいる。「ハウスレス」かもしれないが「ホームレス」ではない。いつか皆、人間は誰しも、ハウスレスの境遇に陥る。しかし最も悲惨なのは、居場所を失う、身の置き所を喪失する「ホームレス」である。「わたしの父の家には、住む所がたくさんある」。そして主イエスがそこへの「道」となってくださる。その道を歩みたい。