「なおも先へ」ルカによる福音書第24章13~35節

皆さんは、よく歩く方か。大体一日にどのくらい歩いているだろうか。最近は、スマホが自動的に歩数を記録してくれる。「父方の祖父母は人の目を気にする点で性格が違った。足が弱ると祖父は外出しなくなり、祖母は補助カートを押して縦横無尽。祖母はずいぶん長生きした」こんな話をよく耳にする。週一、二日でも八千歩以上歩く人は、歩かない人と比べて死亡率が十数%低いとの研究結果を、国内外の大学の研究チームが明らかにした。八千歩以上の歩行数がもたらす死亡率の低下は夙に知られているが、毎日でなくても効果はあるという。この研究の発端は、週末しか運動の時間が取れない人からの相談だったらしい。機会に制約のある人、それ以上に、日々の克己勉励が苦手な人は多数いる、根拠のある朗報といえるだろう。「継続は力なり」というが、「断続」というのは気が楽である。

この国には、今でいう「散歩」という習慣はなかったらしい。漢方薬の効能を高めるために、飲んだら発汗する程の速足で歩き、薬効を身体全体に巡らせる、といういささか乱暴な「療法」を「散歩」と呼んではいたようだ。今日のリフレッシュ、気分転換や健康増進の目的の散歩が始まるのは。近代の夜明け、幕末を俟たねばならない。そしてその立役者が、「散歩」と深くかかわるというのは、驚きである。

幕末当時、長崎に設けられた海軍伝習所に留学していた勝海舟、オランダ人教官たちの「あてどもないぶらぶら歩き」に興味を抱いた。「なぜ西洋人は用事もないのにぶらぶら歩くのか?」とオランダ海軍士官に尋ねると、彼は「これをプロムナードという」と教えた。「歩くことを楽しむ」といった意味であり、さらにこうも続けた。「時間さえあれば市中を歩き回って、何事となく見覚えておけ。いつか必ず用に立つ」。歩くことを楽しみながら見聞を広める。そのプロムナードという言葉に海舟は「散歩」という言葉を充てるのである。これが日本語の「散歩」の起源だと伝えられる。第一に身体のために良い。同時に、見知らぬ町を歩きまわることで人々の生活の様相や、人々が今、何を望んでいるかが知れる。つまり、今日にいう世論が分かるということ。目的もなく歩くが、属目することが勉強なのである。江戸に帰った海舟は、これを己の生活の中で、豊かに実践した。散歩の習慣は長崎で始められて、江戸に帰ってからもやめなかった。知的好奇心の活発な男だから、江戸の裏町の生活ものぞき、庶民の生活を知ったと伝えられる。その体験が「江戸城無血開城」につながったと見る向きもある。

福音書の著者ルカは、「物語の神学者」であるから、復活という出来事も、物語の手法を持って語ろうとする。「エマオ途上」の物語は、とりわけ聖書の中でも秀逸な構成を持っているといえる。二人の人が道を歩んでいる。この二人は16スタディオン、約12キロの道をたどるから、つごう3~4時間の道程を歩くことになる。そこに出来事が起こる。15節「話し合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし二人の目は遮られて、イエスだとは分からなかった」。数時間余りの道のりを、ただ押し黙って、黙々と歩くというのは、スポーツ競技でもなければ、余りに退屈な時間である。

私の先輩で、半世紀以上も前に、マレーシアで宣教師をされていた牧師がいる。地方の村のキリスト者家族を訪問するのに、村までの道が通っておらず、小舟(ボート)に乗り、川を遡上して訪問する。途中でボートのエンジンが故障した。そぼ降る雨の真っ暗闇の中、野獣や化け物がどこからか襲ってきそうな不気味な雰囲気である。夜が明け明るくならなければ、修繕はできない。否が応にも立ち往生する中で、誰かが提案した。「夜明けまで、話でもして気を紛らわすしかない。順番に、今まで経験した一番の自分の馬鹿話を披露しようではないか」。そこで数人の者たちで、順ぐりに一晩中の馬鹿話に打ち興じて、その恐ろしい夜を乗り切った、というのである。

エマオに向かうこの二人も、やはり話をしている。エルサレムで、実に恐ろしく落胆させられる経験をして来たのだ。「そしてまさに彼らは、これまで生じたすべてのことについて互いに語り合っていた」。随分強調された表現が使われている。夫婦であれ、友人であれ、仕事の仲間であれ、どのような人間関係でも、こんな風に、真面目に、真剣に、こころから語り合えて、しゃべることのできる話題がある、というのは素晴らしい、と言っているようにも感じられる。もしかしたら人生の豊かさは、この辺りにあるのかもしれない。誰かと互いに心から語り合える何かを持っているか。心から聞くことのできる耳をもっているか。そしてそういう「場」ほどこにあるのか。

ルカはこの二人に託して、教会の現実をメタファーで語っているのだろう。教会は常に歩み続けている。「二人または三人が私の名によって集まるなら、わたしもその中にいるのである」二人いれば教会である。互いにナザレのイエスという方について、あれこれあれこれ語り合いながら。ただそれだけ、それが教会の原点だ、とでもいうように。但し、残念ながら彼らの表情は暗い。「二人は暗い、悲しい顔をして、立ち止まった」。前の聖書個所で、復活の証人となった女たちが、空虚な墓を目の当たりにして、「途方に暮れた」と伝えられるが、教会はここから歩み出すのである。

テキストには、この二人の道づれが、「教会」を表す(隠喩)ことの証拠が、しっかりと記されている。夕刻、エマオに着き、クレオパの家に到着すると、二人は主イエスを引き留める。「お泊りください」、主は私たちの招きに応じられる。「主よ、ここにお出でください」という祈りに応えてくださる。今もそうである。三人で共に夕べの食卓につく。主イエスがホストとなって、パンを裂き、そのひと切れづつを二人に分かち合う。これは初代教会の礼拝の様子を、そのままに切り取っている。礼拝は夕刻に行われる。家の教会に同信の者たちが集まり、持ち寄りの食べ物を食卓に並べ、分かち合って食べる。それが礼拝であった。食事の最中、家の主人あるいは教会の世話人が、おもむろにパンを取りこれを裂き、十字架で苦しまれた主について告知し、皆はこれを想起する。そして食卓に集っている一人ひとりに、そのひと切れを手渡す。「パン裂き」と呼ばれ、これこそが礼拝の中心であった。食べ、飲み、賛美し、み言葉を語り、祈り、最後に「主よ、ここにお出でください」と皆で唱和して礼拝は閉じられる。その有様を、ルカはエマオの物語の中で、物語として再現しているのである。

ここで興味深いのは、31節「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。面白い構文である。「目が開かれる、すると見えなくなる」。矛盾することを語っているかのようだ。但し、人間の実感覚は、この言葉のようである場合が少なくない。見えているのに、見ていない。見えてないのに、見えているように感じる。視覚と脳の処理との乖離、あるいは修正の問題である。主イエスも言われた「見えていなければ罪はなかっただろう。見えると言い張る所に、あなた方の罪がある」、誠に手厳しい。

この文章はこう理解することができる。「二人の目が開かれ、主は確かに居られることが分かった、すると目に見えるかどうかは、もはや問題でなくなった」。ここにルカの一番の主張がある。「復活の主を見た、よみがえりの主が現れた」と弟子たちは口々に証言する。しかし問題は見たかどうか、ではなくて、今、よみがえりの主が共に居られて、生きて働かれているという事実そのものではないか。見えるか見えないかは本来どうでもいいことなのだ。

「話し合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし二人の目は遮られて、イエスだとは分からなかった」。確かに主イエスと分からないまでも、復活の主が近づき、一緒に歩み出される。教会も、ひとり一人の人生もそういうものだというのである。私たちの希望はこれにかかっている。「イエスご自身が(の方から)近づいてきて、一緒に歩き始められる」。このみ言葉があるから、今日の歩みを、また一歩一歩、歩むことができるのではないか。

『はてしない物語』の著者ミヒャエル・エンデは、作品の中でこう語る。「物語(ファンタジー)の中に決して行くことができない者がいる。向こうに行きっきりになってしまう者たちもいる。だがごくたまに、物語(ファンタジー)の世界に行って、また戻って来る者もいる。そういうやつが、この世界を健やかにするんだ」。今日の二人の旅人の内、ひとりは「クレオパ」、敢えて訳せば「有名な大人物(親分)」という中々意味深な名前である。福音書には、ここだけで他にその名は見えない。もうひとりの名は、まったく記されていない。彼らは家、故郷、即ち、「自分の日常、現実」から歩み出して、エルサレムに行き、主イエスの十字架への道行き、その最期を目の当たりに見てきたのである。そして彼らは再び、自分の家のある故郷に戻って来た。その旅とも言えない「散歩」において、復活の主イエスに出会い、親しくひざを付き合わせて、言葉を交わした。その親しい対話と交わりの後に、主イエスが見えなくなった時、32節「彼らは『わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発し」たというのである。

二人の内、ひとりの名前が知られていない、というのは残念な気もするが、そこは思慮深いルカの、敢えて匿名にしている意図がある。それは誰のことか。日本語の聖書ならば、妙な符合が見いだせるだろう。これは「エマオ」途上の物語である。この物語を裏がえしにして読めば、実に「オマエ」の物語、なのである。あなたの物語に、そっと主イエスが寄り添う、というのである。