「ひどい苦しみの中で」テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節

「『原爆雲は、ピンク色じゃった』。広島大学の元学長で現役の医師、原田康夫さん(92)の記憶は鮮明です。原爆が投下された時、原田さんは広島県立広島第一中学校(現・広島国泰寺高校)二年生。その日、爆心から八百メートルの市街地へ「建物疎開」に動員されるはずでした。空襲による火災が広がるのを防ぐため、あらかじめ建物を取り壊し、空き地をつくる作業です。ところが、二年生を引率する教師から「動員一週間目だから休め」という急な指示が出て、爆心から十三キロほど離れた大屋村(現・呉市天応町)の自宅で過ごすことになったのです。

一九四五年八月六日午前八時十五分、自宅二階の廊下で、竹ひごを曲げて模型飛行機を組み立てていた原田少年。稲妻のような閃光(せんこう)に驚いて窓の外に目をやると、巨大な鏡餅を三つ重ねたような異様な雲が海越しに見えました。続いて聞こえた『ドーン』という大音響と地震のような震動に追い立てられて、外に飛び出しました」(8月6日付「東京新聞社説」)。

ヒロシマの原爆についての最初の記憶は、教科書に載せられていた「原子雲」の写真だったと思う。むくむくと空高く立ち上って行く、灰色の気味悪い雲の形が、子ども心に異様で不気味に強い印象を刻んだ。それはモノクロ写真であるから、「黒っぽい灰色」にしか見えない。後に井伏鱒二の小説『黒い雨』が伝える通り、その暗い雲の中から放射能にまみれた黒い死の雨が地上に降り注いだのである。ところがそれを実際に目の当たりにした一人の高校生(当時の)が証言する、「原爆雲は、ピンク色じゃった」。体験として語られなければ、決して衆人に伝わらない情報である。

原爆投下後に様々な機関が調査を行っているが、原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていないという。因みに広島市では、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなったと推計しているという(広島市市民局平和推進課)。この悲劇と悲惨の直接の元凶である「原爆」が爆発した直後の、「ピンク色の雲」をどう受け止めるか、一般にピンクは、人間の心を楽しく朗らかにする色である。「悲劇におよそ似つかわしくない」か、「悲劇とはアイロニックだ」と感じられるか。

「後から知ったことですが、引率の先生は『八月六日に特殊爆弾を落とす』という米国の予告ビラを読み、あえて休みにしたそうです。その判断が命運を分けました。屋外の作業に従事した三年生の先輩たちは熱線から身を守るすべもなく、ほぼ全滅。建物疎開に駆り出された約八千人の中学生や高等女学校の生徒のうち、六千人が被爆死したといわれています」。そしてこの話を語る原田氏はこう述解する「わしはあの日、死ぬはずじゃった。じゃが生かされた。生かされたけん、何かせにゃいけんという気持ちが強くあるわけじゃ。それがわしの原点じゃけん」。一枚の「予告ビラ」、そんなもの「でたらめの宣伝だ」、「敵の謀略だ」としきりに喧伝される中、「あえて休みにする」という判断をした教員がいたという事実も、また深く考えさせられる。小さな命を預かることの重さは、こうした「一枚のビラ」の「ことば」をどう受け取るか、にも掛かっているのだろう。

さて、今日の聖書個所、テサロニケの信徒への手紙一は、パウロの手になる手紙の中で、最初期のものとみなされている。他の手紙よりも、切迫した「終末」観が意識されていることや、まだ「キリスト教」という名も生まれていない頃に、パウロの伝えた福音宣教を、新鮮な思いで受け止めている人々の具体的な様子が、リアルに伝えられているからである。

今日のテキスト、手紙の冒頭部分にも、そのことが良く表れている。3節「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。原文はもう少ししゃきっとしている「あなたがたの信仰のわざ、愛の労苦、イエス・キリストにある希望の継続を、神のみ前で憶えている(ひと時も忘れることはない)」。未だキリスト教の教理や教義が確立していないこの時期でも、教会とは何であるかが、はっきりとここに語られている。「礼拝を守り、福音を宣べ伝え、愛のわざに励みつつ、主の再び来られる時を待ち望む」教団の信仰告白文にも語られる通りの教会のつとめが、すでに意識されていることが分かる。

テサロニケの町は、現代ギリシャ共和国においても、首都アテネに次ぐ大きな都市であり、テルメ湾の北東端に位置する良港を有している。ローマ時代には、オリエント世界へ通じるエグナティア街道の要衝でもあり、今に至るまで、通商や貿易の要であり続けた。パウロは、第2回目の伝道旅行において、この町を訪れたようだ。ここは自治が許されていた町で、進取の精神に満ちていたからでもあろう。他方、都市に住む人々の孤独や漠然とした不安、あるいは倦怠に応えるものを、教会は示すことができた。

使徒言行録17章に、パウロはテサロニケの町のユダヤ人会堂で、「3回の安息日にわたって」人々と論じ合い、宣教を行ったことが記されている。どの程度の間、滞在したかは不明であるが、いくらかの期間で伝道がなされ、それが実を結び、ユダヤ人たちの内で「ある者は信じて、パウロとシラス(シルワノ)に従った」のである。この町に住むユダヤ人ばかりでなく、「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように2人に従った」(4節)と伝えられている。

この世に教会が誕生した、その「喜び」に伴うように宿命とも言える事柄が「迫害」であった。最初に誕生したであろうエルサレム教会では、ナザレのイエスを「メシア」と信仰告白することで、ユダヤ人からの誹謗や中傷に悩まされた。それは異邦人教会でも同じことであった。ヘレニズム世界の習俗や慣習をないがしろにするとして、地域社会から攻撃を受けたのである。そうした周囲の無理解の中に置かれ、苦労している教会を、そこに集う人々のことを人一倍心配しているのが、パウロなのである。困難や苦しみの時に、何らかの事情で遠くにいるなら、すぐ飛んで行って激励するのが、心映えというものである。ところがパウロにはそれができない訳があった。彼自身が「肉体のとげ」と呼ぶ、おそらくは厄介な宿痾が、使徒を度々悩ませ続けたのである。

教会に招かれた人々、最初に教会の礎を築いた人々の抱える有様を、パウロは短くひと言で言い表している。6節「あなたがたはひどい苦しみの中で」、わたしパウロから福音を聞いたのであるという。そのパウロもまた抱える事柄は同じであった。ユダヤ教の輩から「裏切り者」の烙印を押され、同信のキリスト者にも全く受け入れられているとは言い難い微妙な立ち位置の中で、彼はみ言葉を語ったのである。そして今、「肉体のとげ」を抱え、その痛みを堪えながら、仕方なしに、それ以外どうしようもないから手紙を書いて、同じく苦しみの中に呻いている懐かしいテサロニケ教会の仲間たちを、思い起こしているのである。「ひどい苦しみの中で」、この苦しみの紐帯、絆が、使徒と教会を結び付けているのである。ここから何が生まれ出るのか、教会はどのような果実生み出せるのか。

6節後半「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、主に倣う者となった」、み言葉によって喜びが生み出され、十字架の主の後ろ姿を見ながら、歩む者となった、というのである。「苦しみの中で、喜びが生み出され」とは、苦しみが胡散霧消するように「取り払われて」、そこれに代わって「喜び」がもたらされる、というのではない。日々、苦しみはありつつも、そこに歩む術と方向を与えられ、しかも今日、歩む力を与えられる、ということである。実にこれこそ聖霊の賜物であろう。それでも今日、歩める。

先に紹介した記事の続きを紹介したい。「『わしはあの日、死ぬはずじゃった。じゃが生かされた。生かされたけん、何かせにゃいけんという気持ちが強くあるわけじゃ。それがわしの原点じゃけん』原田さんは振り返り、そして訴えます。『核兵器をなくさんと、地球には人が住めのうなる。核戦争をなくしたい。そのためにはただ口を開いて語るだけではのうて、例えば芸術の力を借りたりしながら、核廃絶をやらにゃいけんと思う』。医学者ながら美術にも造詣が深く、広島市現代美術館の館長を務めたこともある原田さん。五年前、広大病院の敷地の中に、収集家の知人から個人的に寄贈を受けた約千三百点のポーランド絵画を収蔵、展示するための美術館を私財を投じて建てました」。

かつての不条理の苦しみや悲しみを無いことにはできない。依然としてそれは心に深く刻印されている。しかしそこにもまた「喜び」が吹き込まれるのである。主イエスの十字架の背中を見る者は、悲惨の死の向こう側、即ち、「死んで葬られ、三日目に」起こった出来事をも、知ることになるのである。死で終わりにはならない、それが私たちの、平和への一歩を、しっかりと形づくるであろう。