「まさしくわたしだ」ルカによる福音書24章36~43節

「七たび尋ねて人を疑え」という諺がある。どういう意味か。「何度も繰り返し確かめて、人を疑ってかかれ(人を見たら泥棒と思え)」という意味か、あるいは「何度も繰り返し自分を確かめてから、人を疑え」という意味か、どちらの意味が正しいか。この国だけの諺ではなく、ドイツにも「誰かを疑う前に自分を納得させよ!」という言い回しがあるようだ。「疑い」の心は、人に向けられるよりも、自分自身の問題なのだ、という洞察がこの諺には込められているだろう。

さてこの国で(ロシアやウクライナの)正教会の研究を専門にしているある学者が、こういう発言をしている。「戦争は不条理の塊である。ウクライナでも、ロシアでも悲しみと怒りが渦巻いている。戦争の被害者に罪はない。彼らの多くが『なぜ私たちが…』と考え、その怒りのすべてをロシアにぶつけようとしている。ウクライナが、大国ロシアに決して屈しないのはこの怒りがあるからだ。私たちには、この怒りをなだめることはできない。

一方で、ロシアでの生活を自分の生活の一部としてきた私は、その攻撃の根本にあるものが、大国主義的な利益関心のみによるものではなく、むしろ『なぜ私たちばかりが…』という怒りであることを知っている。なぜ私たちの価値観は蔑まれるのか、なぜ私たちがいつも悪者にされるのか…。これもまた答えを求める問いではなく、怒りであり、私たちはこれをなだめることも、その言い分を認めることもできない」(高橋沙奈美「ウクライナとロシアと共に祈る」本のひろば2023.2)。

この2つの国の戦争の根にあるものは、端的に「怒り」だ、その怒りは「なぜ自分が、自分だけが」という自分で自分に突き付けた問いを巡って生じており、それは「なだめることができない」、つまり自らの内で回り続け、くすぶり燃え続けるものだというのである。冷静だが、心を暗澹とさせる分析であるが、人間と人間との「不信」や「疑い」そして「敵愾心」の実際は、まさしくそういうところから生じるのだろうと思わされる。だからといって「自分には関係ない、放って置けばおけばいい」で無関心を装えば、必ずその火の粉は、どこかで降りかかって来るだろう。世界は、良くも悪くもつながって動いているのが、現代という時代である。

今日の聖書の個所は、前回の続き、「エマオ途上」の物語のエピローグである。見知らぬ旅人が実に復活の主であったことに目が開かれた二人の弟子は、エルサレムに戻り、自分たちの出来事を伝えた。ところがエルサレムはエルサレムで、弟子たちの間は、大騒ぎになっていた。シモンに復活の主が現われなさった。するとその大騒ぎの現場に、主イエス自身がお出でになり、弟子たちに声を掛けられた。「こういうことを話していると(大騒ぎでああでもないこうでもないと議論していると)、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち(議長のように)、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。主役の登場で、それでその場が丸く静かに収まったかと言えば、そうでもないようだ「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」。復活の出来事の情報がすでに伝えられているにもかかわらず、「幽霊だ」とばかり、弟子たち一同は怖じ怖れ、恐がり、パニックに陥った、というのである。「真実は劇薬、嘘は常備薬」とある心理学者の語る通りである。人間、「真実」を目の当たりにすると、まったく混乱し、訳が分からず、右往左往してしまうことが、良く表れている。人間にとって嘘の方が安心し、居心地がいいのである。

その様子を見て、主イエスが言われる「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」。ここで用いられている言葉、「疑い」と訳されている用語は、非常に興味深い単語である。ある意味では、現代社会の状況を言い表すような単語なのである。“ディアロジスモス”という言葉である。「ロジスティックス」という言葉を聞いたことがあるだろう、同じ言葉が用いられているのである。通常、どう訳されるか、「流通、物流」と訳される。有史以来、人間は様々に人やモノをあちらからこちらに動かして、商売し、経済活動を行って来た。因みに紀元前10世紀にイスラエルを統治したソロモン王は、海上貿易に手を染め、一年間に金25トン(現在の相場で4000億円)もの個人的利益を上げていたと聖書に記されている。「ソロモンの栄華」、これをもたらしたものが、実に古代の「ロジスティック」なのである。

この国では今、「2024年問題」が非常に危惧されている。この国の「ロジスティックス(流通、物流)」が破綻するかもしれないというのである。運ぶモノはさらに増加する。個人でも宅配を依頼する機会が急増している。ところがモノを運ぶにためは、それを運ぶ人が必要なのである。トラックや鉄道、船には運転する人、積み荷を積む人下ろす人、膨大な人手が必要であるが、こうした仕事を請け負う人が、極端に不足するという。皆さんがモノを注文しても、一週間待ちはおろか一か月待ちとか、何時、到着するのか、皆目分からないという状況が展開されるのではないか、というのである。さてどうする。

「疑い」と訳される“ディアロジスモス”とは「過剰な流通」という意味で、自分のこころの中で、どうにかしなければならない問題や、気になる事柄がぐるぐるぐるぐると果てしなく堂々巡りする様を表わしている。するとどうなるか。心は不安に駆られ、動揺し、落ち着かず、冷静でまともな判断ができないような状態になる。「頼んだものはいつか着くだろから、来るまで気長に待ちまひょか」という心持ちで、のんびりと生きられる人は、「2024年問題」は大したことではないかもしれない。しかし殊、この国の食料に関しては、海外にほとんど依存している現状であるので、“ディアロジスモス”は極めて深刻なダメージを私たちに与えるだろう、と思われる。

心の中の堂々巡りが、大きな不安を生み出し、それが疑いを育んで行き。それが過大になって耐えきれなくなった時に、私たちに何が起こるか。ルカが「疑い」という言葉によって、私たちに提起している事柄は、単に、主イエスが復活したというのは、ほんとうか、見間違いではないか、誰かがまことしやかな嘘を言ったのではないか、科学的に考えて真実か否か、死者の復活、そんなこと信じられない、という意味合いではない。

福音書は、「信仰、信」について語る書物である。ルカ福音書もそれは同じことである。「あなたの信仰が、あなたを救った」と主イエスによって、病を癒された人、穢れた霊から解き放たれた人について語られる場面がいくつも記されるが、これは奇跡を信じるか否か、非科学的な事柄でも、信仰の名によって信じなさい、ということではない。そもそも人間は「信」がなければ生きられない、と言っているのである。人と人とは「信」によって結ばれ、「信」によって共に生きることができる。もし「信」がなければ、人は分断され、「疑い」という心の堂々巡りの中に、閉じ込められるのである。そして「信」がなければ、神はその御手を伸ばし、働くことはできないであろう。神は人と共にある方、人間の「信」と共にある方だからである。

最初に引用した高橋氏の文章はこう続く「悲しみと怒りをぶつけあい、力によって正義を証ししようとする限りにおいて、平安は訪れない(堂々巡りである)。終わりの見えない戦争の現実を目の前に、私たちが祈ることは、何の役に立つのか」。祈りが何の役に立つのか、という正直な言辞について、そもそも「役に立つ」かどうかで、祈りがなされるものではないと思うが、それは私たちの無力感、非力さの告白であり、嘆きでもあるだろう。「終りの見えない」という状況は、人間に「疑い」ばかりを増幅させ、希望を失わせる一番の要因である。そんな「堂々巡り」を断ち切る働きが、どこにあるのか、どこから来るのか。

弟子たちの堂々巡り、その混乱の只中に、その真ん中に、よみがえりの主イエスはやって来られ、そこで弟子たちに告げられたという。「あなたがたに平和があるように」。混乱の中に、主は「平和」を宣言されるのだという。確かに、ここに平和などありえようはずはない、というところに平和が語られる、そのことに、複雑な思いもよぎるのであるが。「平和」という言葉が、今、戦争が行われているこの場所で、何の役に立つのか、という疑問である。しかし同時に、戦争もまた「言葉」によらなければ生じないように、その終結も言葉によるのである。そもそも「平和」という言葉が語られることなしに、平和がもたらされることはないだろう。

しかしこの「平和があるように」とは、「シャローム」、挨拶の言葉である。主は、再び弟子たちと出会われ、以前と変わらない言葉で挨拶を交わされる。「あいさつは心を開く合言葉」と言われるように、人と人とが、せめて挨拶も交わすことがないとしたら、関係の修復はあり得ないだろう。主イエスはかつてと変わらない「シャローム」というなつかしい挨拶の言葉で、混乱し堂々巡りし、「なぜ私たちばかりが」と自分自身に凝り固まる弟子たちの心を開こうとされたのである。さらに弟子たちの目の前で焼き魚をむしゃむしゃ食べて見せて、共に生きることの幸いを告げ知らされたのである。ここによみがえりの生命の発露が、豊かに注がれていないだろうか。私たちは、ここからまた歩みを始めようと、共に祈ることはできないだろうか。