「もうそれでよい」ルカによる福音書23章39~53節

先日、ある新聞のコラムにこう記されていた。「影は光よりも大きな力をもっている」。15~16世紀を生きた芸術家レオナルド・ダビンチが書き残している。影は物体から完全に光を奪うことができるが、光は影を追い払えない。光はどうしても影を作ってしまう。ダビンチの絵画から感じるのは、描かれた影の重さと深さである。闇に包まれた男が浮かびあがる「洗礼者ヨハネ」では、十字架さえ暗がりに紛れる。描きたかったのはヨハネではなく闇だったのでは。そんな気すらしてくる。受難節に読むにふさわしいようなコラムである。

この記事は、先のニュースで伝えられた宇宙の「ブラック・ホール」の撮影に初めて成功したことへの文章である。当の画像では、オレンジ色のドーナッツの中に(おいしそうだが、5500万光年の彼方、太陽の65億倍の質量を持つ巨大なもの)、黒々した闇が映し出されている。この画像を撮影するために、世界六か国の望遠鏡が、人間に換算して「視力300万」の能力を駆使して、実現したらしい。コラム氏が言うように、これが見えたところでどうなるというものでもないが、とにかく「ある」と予言されていたものが、100年経って目に見えるようになったのだから、すごいのだろう。
「光と闇」、正反対ではあるが、これは別々のものではない。光があるから闇ができる。そして光が強ければ強いほど、闇もまた濃い、と言われる。そしてブラックホールは、巨大な重力によって、自らを小さく小さく縮ませ、その挙句、光をも飲み込んでしまい、出て来ることができないゆえに生まれる闇だ、というのである。最も深い闇ともいえる。
今日は受難週の初め「棕櫚の主日」である。この日、主イエスが、旧約の予言通り、大きく勇ましい馬ではなく、小さな子ロバに乗って、エルサレムに入城された。人々は皆、この主を「ホサナ・ホサナ」と歓喜の声を上げて迎えた。まさにあふれる光の到来である。しかしほんのその数日後には、主は捕らえられ、十字架を担いでゴルゴタの道を上り、十字架に釘付けにされる。「ホサナ」と叫んだ人々は、口々に「十字架に付けよ」と罵ったのである。主が十字架の上で息を引き取られるときに、「全地は暗くなった」と福音書は告げている。ブラックホールのように、深い闇が地を、人を、そして光を覆ったのである。
その闇の深さを、福音書記者たちは皆、克明に記している。そして余人に増して、その闇に深く目を留めているのが、ルカである。今日のテキストで、「しかし、今は」「闇が力をふるっている」と主イエスは語るのである。
主イエスが、ゲッセマネの園で、祭司長たちの手下に捕縛されるくだりを、すべての福音書が、ほぼ同じように伝えている。「その内のある者が打ちかかって、大祭司の手下に打ちかかって、その、右の耳を切り落とした」。弟子の中のひとり、ヨハネ福音書では、ペトロと名指しされている。他の福音書では、ぼやかしてはいるが、どうもヨハネではないか、と匂わせるような書き方をしている。誰でもいいが、先生の一大事、というので切り付けて、右の耳を削ぎ落した、というのである。実にリアルな描写なので、「さもありなん」それくらい小競り合いはあったろう、と思われる。弟子たちは、ただくもの子を散らすように師を置き去りにして逃げたのではない。微力ながらも先生を守ろうとしたのである。その時、主イエスが厳しく戒める、「やめなさい、もうそれでよい」それくらいにしておけ、もうそれ以上はだめだ。福音書の記事の中でも、劇的な書き方である。人は怒りにかられることがある。怒るのは血圧はじめ、健康にはすこぶるよくない(己に言い聞かせている)。
しかし、それもまた人間の感情の起伏、正直な有様である。しかし問題は、怒りに飲み込まれるということである。怒りに飲み込まれたら、人間は破綻するのである。怒ってもよいが、怒りに振り回されてはならない。怒りを引き留め、素面に引き戻すものがどこかに必要なのである。人間に、皆さんにはそれがあるか。
残念ながらそれは自分の内からは出てこない。弟子たちが、抑えきれず、暴走しそうになる時に、主イエスの「やめなさい、それでよい」という声が響く、私たちにとって、このみ声を聞く耳を持っているか、福音書記者たちが、一様に問いかけるこの問いは、初代教会への問いであると共に、今も大きく問われるところであろう。

ところがこの伝承について、ルカの記述は、非常に問題をはらんでいると言える。今日のテキストの直前に、主イエスは弟子たちにこう語る。「しかし今は、剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」。弟子たちが二振りの剣を主に見せると、「それでよい」と言われる。このくだりは、ルカだけが伝えるものである。他の福音書は、まったく沈黙している。この箇所は、「解釈の十字架」ともいえる箇所で、ずっと聖書学者たちを悩ませてきた文言である。なんとなれば、主イエスは自衛のための武器を貯え、そして自衛のための実力行使を認めている、とも理解されるからである。ここには、ルカが身を置いていた教会の議論が背景にある。ユダヤの国が崩壊し、ローマ帝国がその権勢を最大限に広げつつある時代である。闇と悪が支配している時代という認識のもと、キリスト者たちは終末がすぐにも訪れることを、信じて待望していた。しかしなかなか終末はやって来ない。教会は、迫害の中に置かれている、この時代、自分の身を守るために、最低限の武器を持って良いか、そして使用してもよいか、という議論である。

「今は、闇の時、闇が力をふるい、支配する時だ」。そうならばどうするか。38節末のみ言葉は、極めて難解である。二振りの剣を見せられて、主イエスは「それでよい」と言われる。しかしこの文章は、反語的ニュアンスをも持っているのである。「それで十分なのか」。「それでよいのか」。あなたがたは得意げに剣を指し示すが、それでよいのか、十分なのか。闇の中、闇が力をふるう中、武器があれば安心、大丈夫なのか。
こういう言葉がある。「武器を取る勇気のない者や、自分は暴力を用いる抵抗運動はできないと考える者は、非暴力運動はできない。非暴力は、死ぬことを恐れるような者や抵抗する力を持たない者には教えることが出来ないものである」。また「非暴力においては、かつて自分がそれに熟練していた武器よりも、はるかに勝る、非暴力の力を身につけたと実感できない限り、その者は非暴力とは何の関係もない者でしかなく、結局は武器に戻ってしまうだろう」。
随分厳しく、きつく鋭く問いかける言葉である。誰の言葉か。インド独立運動の指導者、ムハトマ・ガンジーの語った言葉の一節である。「武器を取る勇気を持つ者、暴力によって抵抗することができる者だけが、非暴力運動をなしえる」。この文言は、逆説である。武器を取る勇気を持つ者、とは武器のほんとうの姿、その限界を知るものということであろう。暴力を行使できる者とは、暴力の悲惨さ、むなしさ、を心の芯から知る者のことであろう。おそらくガンジーは、主イエスのみ言葉とふるまいを深く知る中に、こうした鋭い問いを持ったのではないか。

だから彼はこう語るのである。「そのような無抵抗によって、自分の生命を失えば、自己防衛もむなしいことではないか。また、イエスは十字架上で生命を失い、ローマ人ピラトが勝利したのではないかと疑問を抱く人があるかもしれません。しかし、何と言われようと勝利したのはイエスです。これは世界の歴史を振り返れば、十分明らかです。キリストの無抵抗の行為によって、善の力が社会に解き放たれたのです」。
今日から受難週を迎える。主イエスが、馬ではなく小さなロバを、王冠ではなく桂冠を、王座ではなく十字架を、剣ではなく福音を選び取って、歩まれたことを、深く心に留めたい。その無力の裏側に、神の復活の力が働いていることを覚えつつ、イースターを迎えたい。