「途方に暮れて」ルカによる福音書24章1~12節

イースターおめでとう。喜びの日を迎えられた幸を思う。

主イエスの復活を記念し、祝う風習には、それぞれの国ならではの特色がある。北ドイツでは、イースターの前日の土曜日に、盛大に「たき火」をする。かつては「たき火」は、壮年男性の腕の見せ所、独壇場、大いなる趣味の類であったが、最近の住宅事情、ダイオキシン煙害の影響によって、厳しく規制を余儀なくされている。

夜になると小枝などを高く積み上げて火を燃やし、その周りで飲んだり食べたりして楽しく過ごす。地方によっては藁で作った魔女の人形を燃やしたりもする。火を燃やすことによって、邪気を払い、春を呼び込み、できた灰によって土壌が肥沃になり、新しい生命の息吹を祈願する。これはこの国でも行われてきた「再生と復活」の祭りである。
ところがこの受難週に、よりにもよってフランスのパリにある世界遺産にも登録されている教会堂、有名なノートルダム教会が火災を起こし、塔と屋根が崩れ落ちた、という事件が起こった。すべての新聞がこのニュースを伝え、特にコラムに論じた。
「宿命」。古い塔内の暗い片隅の壁にそう深く刻まれていたそうだ。どうやら中世の人間が書いたものらしい。その文字を見つけたのは作家のビクトル・ユゴーである。「宿命」の言葉に刻んだ人間の悲痛さを感じ取ったという。どういう人間が書いたのか。そこから着想を得て執筆したのが宿命に翻弄(ほんろう)される人々を描いた小説『ノートル=ダム・ド・パリ』(一八三一年)。塔とはパリのノートルダム寺院である。ユゴーが見た言葉も消えうせたか。世界遺産ノートルダム寺院の大聖堂の大火である。尖塔(せんとう)や屋根が崩落するなど、甚大な被害が出た。市民の悲痛な顔。「宿命」と呼ぶには受け入れがたい現実である。荘厳なる美と歴史。十二世紀着工の大聖堂はパリ市民のみならず、人類全体の宝であった。それが失われた。修復工事中の失火が原因とみられている。フランス革命にも二度の世界大戦にも難を逃れた大聖堂が失火で炎上したとはなんという皮肉な宿命なのか。

今日の聖書の個所は、ルカの語る復活の出来事である。4つの福音書を比べて読むに、主イエスの受難、十字架については、どの福音書も同じような、共通の記述がなされているのに対して、復活については、それぞれの福音書家の受け止め方、見解が非常に多彩であることが分かる。それは取りも直さず、「復活」の事件について、初代教会の人々の多様な体験が背後にあったことが知れる。「復活」の出来事についての目撃者証言によれば、マルコは「恐ろしい」と語らせ、マタイは「恐れながらも大喜びで」と伝え、ヨハネは「分からない」と言うのである。これらは皆、最初の諸教会の、「復活」に対する正直な「受け止め」なのである。これは今の私たちにとっても、同感なのではないか。主イエスの復活は、「不思議で、不気味で、本当ところ何か分からないが、喜び」なのである。
さて当のルカは、どういう言葉で伝えているか。「途方に暮れて」である。主イエスの亡骸を収めたはずの墓が、空であることを見た女たちは、「途方に暮れた」。聖書の翻訳は、翻訳者によって、時代によってさまざまな訳語、用語が用いられる。文語訳こそ「うろたえて」と訳しているが、口語訳、新共同訳、最も新しい協会共同訳、さらに塚本虎二、前田護郎等の個人訳も、みな「途方に暮れて」と訳しているのである。「茫然自失、どうしてよいのか分からない」。こんなに訳す人が違って、同じ用語が使われる、他に例がない。

この一語にも、ルカの属していた教会の現実がほの透けて見えるようで興味深い。元気で、活気にあふれ、明るい希望に満ちて、迷うことなく進んでいく。人間いつもそうありたいものだが、「日暮れて道遠し」である。ある辞書にはこう説明されていた。途方に暮れるの「途方」は、方向、方針、方法、筋道などの意味。「暮れる」は「日が暮れる」の「暮れる」であり、夕方になる、一日が終わる、暗くなるなどからさまざまな意味が派生しており、ここでは「明確な判断ができなくなる」の意。「途方に暮れる」は、方法がなくなってどうしていいかわからなくなるという意味であり、「資金繰りに行き詰まって途方に暮れた」などと用いる。まさに「金に困ってお先真っ暗」ということであり、暮れっぱなしの人生を歩むわれわれにとっては「なにをいまさら」という語である。
初代教会、ルカの教会も、まさにそのようだったであろう、世間的に見れば、教会の人々は、暮れっぱなしの人生を歩む者たちである。資金繰り、社会的な評価、人気、どれをとっても、教会はいつも「途方に暮れ」ていたのである。その日暮らしの、明日はどうなるか見当もつかないありさまだったのである。ところが彼らは一日、一日を歩んでいった。それは、暮れっぱなしの人生に、目を向けるべきもの、聞くべき場所、拠り所とするものを、ちゃんと与えられたからある。6節「引用」、そして婦人たちは、イエスの言葉を思い出した。主の言葉が、よみがえった。復活である。ただこの一点から教会は歩み始めたのである。そして、今も教会はまったく同じ歩みをしているのである。

「宿命」。かの大聖堂、ノートルダム教会の古い塔内の暗い片隅の壁にそう深く刻まれていたそうだ。人間にはどうしようもない、なす術ない、変えること、戻すことのできないものに対して用いる言葉である。「さだめ」、すでにずっと以前から決められていた事柄で、それを人間は変更することができず、どうにもできないもの。人間の「無力」を意味する言葉である。確かに人間の生きる世界、この世には、「さだめ」がある。それから逃れられない。
実に主イエスの「復活」は、「さだめ」という言葉で表すにふさわしい。人間には手出しができない、介入したり妨害したり、変更することはできない、人間の「無力」さを表す事柄である。十字架で成す術もなく、釘づけられ、血を流し、「エロイエロイレマサバクタニ」と悲痛な叫びを上げて死なれた主イエスの姿は、私たちの姿とぴたりと重なる、つまり「無力」において主と私たちは、一つである。主の十字架において、私たちは「罪と死」に対して、何らなすすべがないことを見るのである。だから人は人間の「無力」を思い、「途方に暮れる」、なすすべなく「途方に暮れる」。
ところが人間の「宿命・さだめ」に対して、神の「宿命・さだめ」が切り込むのである。それが「復活」という言葉であらわされる神のみわざのことである。「宿命」の前に人間には無力であろう。何もなしえないであろう。そこに神はあたらしい生命を吹き込むのである。相変わらず私たちは、生きている方を(復活の生命を)、死者の中に捜すという、とんちんかんなふるまいを行う。そのとんちんかんの中に、主イエスをよみがえらせたもう。復活は人間の無力の中に、起こされる神の出来事である。