「わたしが選んだ」ヨハネによる福音書15章11節~17節

爽やかな新緑の季節というのに、環境の変化で気持ちがめいりがちになるのが「五月病」である。10連休だった今シーズンは「休み明けの登校は無理をしないで」との呼び掛けが目を引いた。子どもらは生活リズムを取り戻したろうか

社会人1年生にとっても今ごろは鬼門という。「リアリティー・ショック」と呼ばれる。就職前、仕事や職場に抱いた期待と現実とのギャップから生じるストレスだ。はなから「無理をするな」と言う職場はなく、やる気を失い辞める新人が少なくない。

使命感や夢が大きいためか、教師や看護師の現場でよく指摘される。新人教師は教育実習の経験程度で、すぐに先輩と同じ仕事を任される。教科指導や子ども、保護者との関わり方など能力不足を感じることばかり。先輩に注意されても思うようにいかず、精神的に参ってしまう。
長野市の新人看護師は「人助けになり喜ばれる仕事」と胸を膨らませたが、配属先が重症者の病棟になった。チューブにつながれた“沈黙の病室”でミスをしないよう処置を続ける毎日。対話もないまま亡くなる患者の現実に、緊張の糸が切れたという。
昔から「木の芽時」には体調を崩しやすいといわれていたが、「五月病」という言葉自体は、1968年(昭和43年)ごろから使われだした。右肩上がりの高度成長期の波が勢いづき、もはや戦後ではない、という掛け声が口にされるようになった時代である。この力ある時代に、「破れ」が見え始めたのである。本当の危機は、弱さではなく、強さの中に育まれる。

今日の聖書個所は、ヨハネによる福音書からお話をする。私にとっては懐かしい聖句が置かれている個所である。毎年4月に、おそらく日本中のキリスト教学校で、このみ言葉が読まれることだろう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。このみ言葉は、入学式を終えて間もない、新入生に読ませ、覚えさせる恒例の聖句なのである。学校には「入学試験」というものがある。入学した生徒の中には、不本意ながらこの学校に入学した生徒もいる。受験に。失敗したという、挫折感を味わっている生徒もいる。そのままずるずると、無気力や憂鬱のまま、五月病になだれ込んで欲しくはない、と思うからである。
しかしそればかりではない。人生は、自分の思い通り、選んだ通り、計画通りに行くことが、目的ではないのである。何でも自分の選択通り、思い通りになったら、それこそ恐ろしいことになる。決断や選択が人生を作る大きな要素ではあろうが、自分の決断や判断がすべてではないのである。強いられて、否が応でも、心ならずも、という自分に抗うものによって、生まれ育まれる大切なものがある。それを「高価な恵み」と呼ぶのである。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。先日のある新聞のコラムだが、私にとって非常に懐かしい事柄が話題にされていた。ネット検索で「天職」と入力すると、天職の見つけ方や天職探しにかかわるサイトがドッと出てくる。自分に合ったやりがいのある仕事としての「天職」を求める若い人たちの切実な表情が浮かんでくる。天職といえば、職業を表す英語の「ボケーション」、ドイツ語の「ベルーフ」も元は神様からの呼び出し--「召(しょう)命(めい)」のことだった。英語の「呼ぶ」の動名詞「コーリング」が職業の意味なのも、神様の呼び声に由来するわけである。だから天職を探す若い人は、時に天、あるいは神様の呼び声に耳をすますのもいい。そう考えると、この世には人の心に使命感を呼び起こす「声」はたくさんある。たとえば虐待を受ける子どもが助けを求める声なき呼び声はどうか。

「職業」を表す英語あるいはドイツ語は、「神の呼びかけ」という意味合いを含んでいる。何事か出来事の中に、あるいは誰かの声や言葉の中に、神の呼びかけを聞いて、それに応答して成立するのが、職業、仕事と言うものだ。だから「天職という言い方も生まれてくる。働くと言うことは、ただ自分が好きだから、資格や適性があるから、たまたま求人があったから、ということを超えて、天の意思、神のみ旨の表れがあるのだ、という考え方である。
皆さんが初めて教会に出席された時のことを考えてみよう。中には、生まれたばかりの赤ん坊で、親に抱かれて来たので、「覚えてはいない」とおっしゃられる方もあろう。私の知り合いで、初めて教会の礼拝に出席し、後でこんな感想を漏らした。「教会というところは、おかしなことを言う。受付にいた人が俺の顔を見て、『初めての方ですか、これも神様のお導きですね』と言う。俺は自分の意思と決断で教会にやって来たのだ。神さまに連れられて来た訳ではない!」。
確かに教会では、「導き」とか「招き」という言い方をする。私達は、確かにそれで納得しているところがある。神様が招き、あなたの人生を、ここまで導いたのだ。勿論、自分の判断や決断、努力は欠かせない。しかしそういう自分の人生に、横切ってくるもの、ぶつかってくるものがある。それを意識してか無意識かは別にして、受け止め、応答し、今がある。英語やドイツ語の職業と言う言葉には、背後にそういうニュアンスが裏打ちされているのである。神の呼びかけを聞く、そして神の言葉を愛することによって、人の生き方は大きく変えられる。私たちはそれを経験している。それだけではなく、そういう生き方をする人に出会うことによって、その人に出会った人もまた大きく変えられる。
今日の個所のキーワードは「愛」、「互いに愛し合え」という戒めが語られている。ヨハネの、さらには代々の教会の、さらにこの教会にとっても信仰の基である。今日の個所では、この「愛」が、主イエスの「選び」と結びついている。どういうことか。
問題は、この「愛」は教会のすべての根源、基礎なのだが、私たちはたくさんの条件をつけていることなのである。私たちの愛というのは、残念ながら、どうがんばっても条件つきなのである。たとえば自分のことを愛してくれるから、その人を愛するとか、自分はよい状況にあるから人を愛せる、受け入れられるというものである。ところが、自分を愛してくれる人が病気になったり、その人の介護をしなければならなくなったりした途端に、一緒にいることすら苦痛になることがある。元気な子どもは愛せるけれども、重い障がいをもった子はいらないという親もいるかもしれない。そのように考えると私たちの愛というのは、いつも条件がついている。
それでは逆に、私たちは愛されるほどの人間であるか、愛されるに十分な存在かということを考えてみると、どうだろうか。人生を振り返ってみれば、人を裏切ったことや傷つけたこと、大切な場面で自分の利益を優先させたことなど、そういうことが私たちのなかにはたくさんあると思う。私たちはもう破れた存在なのである。それでも神が私たちを愛してくださるのは、なぜなのか。それは今日の聖書にあるように「私があなた方を選んだ」という愛の根拠が、私たちの側ではなく、神の側にあるからである。神があなたを選んだという、神の側に無条件の愛の根拠があるから、私たちは破れた存在であっても、こうして愛されながら生きていくことができる。それを知るから、自分もまた何とかその愛に生かされて、自分もまた破れつつも、そのように生きようとするのではないか。

「パンの木」という題名の詩集がある。教師という仕事を、パンを焼くことに例えた作品集だ。作者は夜間定時制の県立湊川高校に30年以上も勤めた登尾(のぼりお)明彦さん。「私がパンを焼いてこれたのは/私が気に入ったと言えるパンを/いつかは焼いてみたいという/意地があったからだ」パンとは教育のことだろう。「パンは誰でも焼けるが/よい味は/誰でも出せない/焼けない日もある/売れない日もある/だが/それでよい/強がることもない/焦ることもない/一日分の稼ぎがあれば/それでよい」。「私がこれまで/パンを焼いてこれたのは/私のような者が焼くパンでも/じっと待っていてくれる子供たちが/街にいたからだ」。