「一言おっしゃって」ルカによる福音書7章1節~10節

「どうも牧師は、一言多い」と言われる。しゃべる仕事柄か、どうしても余計なことを言ってしまって、後で後悔する。ある人が言った「ひと言どころか、二言も、三言も多い」。どうしてか、それは「み言葉を語るからだ」。余計なことを言うのは、駄洒落くらいにしておきたい。

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えするのにふさわしい者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」。この文言は、今もカトリックのミサ(聖餐)典礼文の中で唱えられる言葉である。司祭が聖体授与の前に会衆に向かって唱える祈りのうちの一つなのである。トリエント公会議後、1570年に発布されたラテン語のミサ典礼書に記され、それが現代まで受け継がれている。おそらくその起源は、随分古い時代にまでさかのぼるであろうと思われる。この文言が、今日の聖書個所からとられていることは明白である。「僕」が「魂」に置き換えられてはいるが。
ミサ(礼拝)の度に、唱えられたということは、この個所は、上から下まで、人々によく知られていた主イエスの物語の一つだったのだろう。そして、信仰者の心とぴったり重なるみ言葉、忘れられないみ言葉でもあったのだろう。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えするのにふさわしい者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」。

これとほぼ同じ物語を、マタイ福音書が記している。比べて読むと、マタイの方がすんなりと読めるように筋が通っている。おそらく元々のオリジナルに近いのは、マタイの方であるだろう。ルカの記述はかなり無理な設定をしている。話の重要なわき役、特別ゲストは、まぎれもなく「百人隊長」、昔の訳では「百卒長」、ケントゥリオ(ラテン語: centurio)とは、古代ローマ軍の基幹戦闘単位であるケントゥリア(百人隊)の指揮官のことである。ローマ帝国軍で、一兵卒からのたたき上げ、つまりノンキャリア組が到達できる最も上の地位だったらしい。兵の指揮統制をはじめ非戦闘時における部下の管理など、軍の中核を担う極めて重要な役割を果たし「ローマ軍団の背骨」と称えられた。このため、ケントゥリオは市民社会からも大きな敬意をもって遇される名誉ある地位であった、などと説明される。時にはこの人物の様に、ユダヤ人に好意を示し、愛される軍人もいたのだろう。そのほうが駐留しやすいだろうが。
ところが、この肝心のケントゥリオ、瀕死の僕の癒しを、主イエスに願いに来るが、一向に姿を現さない。確かにこの隊長、僕の体調を本気で心配し、心を使い、どうにかしようとしている。そこで、使いを送り、長老を介して、主イエスに伝言してもらい、助力を願っている。イエスが腰を上げて、百人隊長の家に向かうと、自宅への往診を願っている割には、家にお招きするのは失礼だからと、家のすぐ近所まで来て、本人ではなくわざわざ友人を送って、往診を断っている。こちらの方がよほど失礼ではないか。本当に僕の身体のことを心配するなら、マタイのように、恥も外聞もなく、名誉や地位も打っちゃって、直接、自ら主イエスの下へ、「助けてくれ」と出向いて、懇願したらいいだろうに、と思う。
わざわざルカが回りくどい話の筋立てをしたのは、やはりそれなりの理由があるだろう。この百人隊長が語ったとされる言葉には、確かに武骨で飾り気はないが、誠実で揺るがない、しかし不器用な人柄が感じられる。8節「引用」、この言葉など、まさに軍隊組織の論理そのままの類比で、信仰を理解する姿は、却ってほほえましい感じがする。「すべて権威の下にあって、命令一下、すべてその指示に、その言葉に従う」。
ルカはギリシャ・ローマの文化を豊かに吸収している知識人だから、当時の百人隊長のできるだけリアルな姿を、「権威のもとにある者」としての一人の軍人の姿を、描きたかったのだろう。そこでは「言葉」がすべてを支配し、動かし、出来事を生じさせていく。「言葉」こそまことの「主人」なのである。だから直接、主イエスの下に姿を見せないで、「言葉」を前面に押し出している。「ひと言、言葉をください」、おそらく百人隊長、病気の部下に、元気を取り戻せるような、言葉をいろいろ語ったのだろう。皆さんならどんな言葉を語るだろうか。「お大事に」あるいは「安心して」、または「ちょっとの辛抱だから」。百人隊長は、部下を思いやることのできる人物であったことは、間違いない。「僕」、つまり「部下」と言えども「代わりはなんぼでもおるわい」、という使い捨ての感覚ではない。生き死にを共にするものの心が、行間から透けて見える。現代の方がよほど野蛮である。瀕死の病の中にある愛する者に、彼は主人だから、何とかしたいと手立てを尽くしたことと思う。就中、力づけ、励ましになるような言葉をかけたろうと思う。ところが、どんな言葉をかけても、病人は元気づかない。ますます悪くなっていくように見える。自分の言葉の無力さを、深く味わったに違いない。

職業柄、病気の方をお見舞いすることも多い。中には病が重く、回復への道筋がなかなか見えない方のところにも伺う。とある教会員から尋ねられた。「どんな言葉をかけるのですか」。痛い質問である。もちろん生命ある限り、回復を祈るのは当然である。しかしそれだけでは足りない。必要なものはひとえに「希望」なのだ。たとえ今日しか生きられなくても、人間は今日一日を生きる「希望」が必要なのである。「希望」となりうる言葉、その切れ端でもいいから語りたいと思う。しかしその言葉は、どう頑張っても自分の中には、見つからないのである。「がんばってください」では希望にならない。だからあの百人隊長と同じ、主イエスに「ひとことおっしゃってください」、せいぜい、こう願い、祈るしかない。普段は命令し、力や権威があるように見せているけれども、生命という事柄にはまったく無力な存在、つまり皆の前に姿を現さない百人隊長、ルカの描く百人隊長は、私たち自身の鏡である。
ルカにはもう一つの謎がある。百人隊長から「ひと言、言葉をください」と求められて、主イエスは腰を上げた。ところがその求めに応えて語った、その当のみ言葉が何か、テキストには皆目、記されていないのである。「使いの者が家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」と語られるのみである。おそらくルカは、読者に暗黙の問いを発しているのである。「ひと言、言葉をください」この求めに、主はどのようなみ言葉を語ってくださったか。初代教会も、中世の教会も、また現代の教会の信仰者も、一番の課題はそこにあるのだろう。今、私たちは、主イエスからどのようなみ言葉を聞くのか。

こんな話を聞いた。とある病院での出来事。ある日、1人の赤ちゃんが低体温の治療のため入院した。入院にはもう一つの理由が。赤ちゃんには育ててくれる人がいなかったのだ。他の新生児は家族が会いに来てくれる。看護師たちは、面会のない赤ちゃんを抱っこしたり、目を合わせて話し掛けながら授乳したりして愛情を注いだ
担当の若い看護師は体重や身長の記録だけでなく、赤ちゃんがどんなにかわいいかをつづり、写真や手・足形と一緒に日記に残した。「大好きだよ」というメッセージを添えて。3週間後、赤ちゃんは乳児院に引き取られた
それから5年。笑顔の愛らしい少女と母親が病院を訪れた。5歳になったあの赤ちゃんだ。特別養子縁組で母親になった女性は、物心付いた娘に事実を伝え、生まれてすぐに入院した病院でとても愛されていたことを、看護師の日記を見せながら話したという「愛されていたことの証しとなる日記を作ってくださってありがとうございます」。
ひとつの言葉が、愛の言葉が、ひとりの人間に生きる勇気と力と安心を与える。私たちもまた、主イエスにこのひとつの言葉を願ったらいい。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えするのにふさわしい者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」。