祈祷会・聖書の学び ゼカリヤ書7章8~14節

魯迅が1923年「吶喊」に収録した作品に『些細な事件』という題の短編がある。作家自身の実体験が基になっていると思しき作品である。所用があって急いでいた「私」は、ある若い車夫が引く人力車を雇った。車夫に道を急がせていると、突然、貧しい身なりの老婆が、車の前に飛び出してきた。人力車は避けようとしたが、わずかにぶつかり、彼女はゆっくり倒れた。周囲には誰も見ている者はいない。老婆は怪我などしていないようだったので、急いでいた「私」は「何でもない、早く行け!」と命令をする。しかし車夫は聞き入れなかった。老婆を助け起こして歩き出す。それを見てさらに思う。「わざと飛び出して倒れたんだ、憎たらしい老婆だ」と。車夫はそんな私を意に返さず、老婆を抱きかかえるように、交番に向かって歩んで行く。

短編にはこう綴られる「わたしはこの時突然一種異様な感じを起した。全身砂埃を浴びた彼の後影が、刹那に高く大きくなり、その上行けば行くほど大きくなり、仰向いてようやく見えるくらいであった。しかもそれはわたしに対して次第々々に一種の威圧になりかわり、果ては毛皮の著物の内側に隠された『小さなもの』を搾り出そうとさえするのである。たった一つこの小さな事件だけは、いつもいつもわたしの眼の前に浮んで、時に依るとかえっていっそう明かになり、わたしをして慚愧せしめ、わたしをして日々に新たならしめ、同時にまたわたしの勇気と希望を増進する」。

先週に続いて、ゼカリヤ書に目を向ける。旧約にはたくさんの預言書が収められており、預言者によって語られた言葉を目にすることができる。神から遣わされ、託されたみ言葉を語った真正の預言者には、一つの共通項がある。彼らの大半は、「裁きの言葉」を語っているのである。何に対する裁きかと言えば、イスラエルの民が、神の言葉を聞こうとしなかった、あるいは神の言葉を捨てた、あるいは、み言葉に対する不従順に対して、なのである。

そもそも、神は人間に何を語り、何を求めているのか。もちろん人間は、神ではない。「神のかたち」として造られたにせよ、人間もまた神の被造物のひとつであり、限界を持った生かされる存在である。神ならぬものが「神のように」なろうとすることこそ、被造物の分を弁えない、そこに傲慢の罪が極まるのである。そして神は、人が人であること、人に過ぎないことをよく知っておられ、私たちに、造られた者として生きることを求めておられるのである。

すると神の言葉もまた、不完全な人間には、到底、聞いて行うことのできない類の命令ではなくして、生身の人間が、日常生活の只中で、「衣食住」のように当たり前に生きることに関わるものであるはずである。神は人間にとって無理難題の課題は、求められないであろう。毎日の「衣食住」は、人間として生きるための必要条件であり、艱難辛苦してようやく獲得することの出来るものではないだろう。もし現実がそうなってしまっているならば、人の営む日常の生活のあり方が、どこか歪んでおり、狂っており、そこに人間の罪の典型を見ることができるのではないか。「衣食住」の問題を、全て自己責任と断ずることは出来ない。

今日の聖書個所の直前に、「断食」について語られている。古今東西、「断食」を信仰生活の重要な要素、「修行」とみなす宗教は少なからずある。そのわざを通して、信仰感覚を新鮮に保つための修行といったところだろうか。日中に空腹を我慢して生きることで、生命の底を確認したり、一種の自己犠牲の経験として、飢えた人や平等への共感を育むことで精神を鍛える。さらに、その苦しい体験を共に分かち合い、擦り合わせることで、信仰者同士の連帯感や絆を強める等の意味合いもあるだろう。また、期間中には日中の飲食を断つだけではなく、喧嘩や悪口や闘争などが忌避されることや、さまざまな欲望を制御することにより、自身の尊厳を高める緒にもなると言えるだろう。

聖書の民もまた、「断食」を神からの戒めとして、誠実に守ったのである。ところが預言者は告げる。6節「あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」。断食の意味合いも、食べるという行為が、生命に直結しており、生命の背後におられ働かれる神に、感謝し、その重さを味わうことにあるのではないか。それを単に、「食べる、食べない」という形式的表面的な行為のみを問題にするところに、人間の過誤がある。主イエスが語ったように、「丈夫な人に医者はいらない、いるのは病人」なのである。

今日の聖書個所は、もっと端的に、神のみ言葉が私たちに何を告げているか、人間の根本的な課題とは何かが、はっきりと記されている。そして真正のイスラエルの預言者は、皆、一様にこれを語っているのである。9~10節「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり/やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない」。人の道というものがあるとしたら、時代を超えて、普遍的に妥当する「価値」があるとしたら、これを置いて他にないであろう。まったく他に何の説明もいらないし、何ら付け加えることも必要ない。

ところが預言者は続けて言う。11~12節「ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた」。人間はこの当たり前の戒め、「戒め」どころか、当たり前の人の「道」に、「背を向ける」というのである。そしてせっせと「断食」には励むというのである。

冒頭に紹介した、魯迅『些細な事件』はこうした人間の問題を見事に描き出していると言えるだろう。そして著者自身の生きる日常に関わるものとして語られることに、私たちもまた鋭く問われるのである。弱い者、小さな存在を無視し、時に踏みにじるのである。「人の道」とは、私たちにとって、決して高尚で手の届かないハードルではない。極めて日常の、些細な事柄の中に実現されるべきものである。主イエスが、人の姿となり、ナザレの人として、大工として働き、ガリラヤの人々と交わり、十字架で亡くなられたことは、まさに神の言葉、福音が、私たちの生きる日常にもたらされることの、一番緒の証であるだろう。