「世の終わりまで」マタイによる福音書28章16節~20節

こんな新聞記事が目に留まった。17世紀の画家フェルメールの名画「窓辺で手紙を読む女」に、別人が後から手を加えていたことが分かった。上塗りされた部分を取り除くと、キューピッドの上半身が現れた。恋愛の神が描かれていれば、女性が読んでいる手紙は恋文だと推察でき、絵画の解釈が一歩深まる。作者の死後、誰かが当時人気のあったレンブラント風にして高く売ろうと改作したのでは、と推測する専門家も。目先の利益のために作者の本来の意図が損なわれたとすれば、嘆かわしい。美の世界にも、人間の悪意が忍び寄るのである。

先週のこんな話題が巷を駆け巡った。高校2年の崎元颯馬(そうま)さんがモノレール内で財布をなくしたことに気づいた。財布には、伯父の葬儀に行くための往復の飛行機代が入っている。失意にしょげかえり、頭を抱える崎元さんに声をかけたのが、たまたま居合わせた埼玉県の猪野屋(いのや)博さんだった。話を聞き、6万円を差し出す。地元紙によると、68歳の猪野屋さんは「あまりに悲しい顔だったので貸すことに決めた」、だまされてもいいと思ったそうだ。名乗らぬまま彼とは別れたが、その後、自分のことを探していると記事で知り「感激して泣けてきた。信じてよかった」。
見知らぬ若い人の、「あまりに悲しい顔」に「どうしたの」と声を掛けずにはおれなかった。見ず知らずの人間の悲しみに、心を伸ばし、言葉をかけ、手を差し伸べる人間、まさしく人間の真実の姿が語られている。
しかし、その数日後、この地から程近い場所で、ひとりの人間が、見ず知らずの小学生に刃物をもって襲い掛かり、多くの子どもを傷つけ、子ども一人の命を奪い、保護者の命を奪った。ある新聞社こういう記事を記した。男は「ぶっ殺すぞ」と叫んでいたらしいが、本当は“無差別”に襲ったわけでもなかろう。明らかに自分よりも弱い、いたいけな児童らに凶刃を向けている。最後はおのが首を刺して、死んだ。一体、何なのだ。身勝手で、ひきょう。こんなむごい仕打ちで断ち切られる人生があっていいわけがない。あってたまるか。
まったく正反対な出来事、この世の天国と地獄の有様を、そのまま切り取ったような2つの出来事である。どちらも人間の仕業である。私たちと変わらない、同じ人間のしたことなのである。この世に2通りの人間がいる訳ではない。良い人間と、悪い人間がいて、天国と地獄を作り出すのではない。人間の両面性、人間には誰にも2つの面があるということである。かつては、知性こそ人間の証、言葉こそ人間の証、さまざまな道具を作り、使用するのが人間、果ては遊ぶことが人間の証、などと人間を巡る定義は枚挙ない。しかし現代思想では、人間の特質を2つの方向から考えている。ひとつは「自己破壊能力を有する生き物」、この能力が個で使われば、殺人や自殺という形になって現れる。これが集団で発揮されると、「戦争」という悲惨な状況が生まれる、というのである。ところが、もう一方で、人間には「自己犠牲の能力」がある。誰かのために、自分の命をも投げ出すという面、そこまではいかなくても、誰かのために自分が損をしてもいとわない、という行動を取るのである。人間はこの二つの間を揺れ動く。しかし聖書は数千年前に、人間という生き物が「神のかたち」にして、同時に「罪のもとにある」存在として描くのである。

今日の聖書個所は、マタイによる福音書のエピローグともいえる箇所で、しばしば「大伝道命令、Great Misson」と呼ばれるテキストである。主イエスは昇天に際して、弟子達にすべての務めにまさる「世界伝道」への使命を与えられた。この言葉は、一説に19世紀中国奥地伝道に尽くしたイギリスの伝道師、ハドソン・テイラーが広めたともいわれる。近代になって、世界にミッショナリー運動(宣教運動)が沸き起こる。明治になって、この国にプロテスタント教会の宣教師が多数訪れ、福音を伝え、教会を形作っていたのも、その運動の流れからである。そしてその精神的基盤になったのが、このテキストなのである。日本基督教団では、今、「大伝道命令」という言葉が、ことあるごとに語られ、強調されている。教会の働きは、宣教・伝道であること、その通りである。但し、「大」伝道「命令」という表現がふさわしいのか。まるでスタジアムや大会場を借り切って、華々しい企画やイヴェントを展開する。そういう規模の大きさを競うような印象である。さらに「命令」、即ち「ノルマや強制、義務」という一方的な押し付けの中で、福音は伝えられていくものなのか。そもそも「福音」とは「喜びの音信」、もっと原意に即して言えば、束縛や抑圧、しがらみからの「解放」の知らせ、「恩赦の知らせ」のことである。
確かにこのテキストは、福音書の末尾にふさわしく、教会の出発の始まりが記されている。教会は常に、人間の熱意からではなく、ただ主イエスのみ言葉によって、歩みだし歩み続けるものである。人間の努力や熱意のみであるならば、その歩みは、いつか冷めるし、滞るし、必ず力尽きるのである。この個所は、教会の初めの一歩について、いささか比喩的ではあるが、見事に示唆されている。
19節「引用」、この文章は面白い。4つの指示が語られている。「行って」「弟子に」「洗礼を授け」「教え」、ところがこの中で、純粋な命令形なのはひとつだけなのである。あとは皆、分詞形なのである、つまり「何々しながら」と訳すべき従属節のような付加的言葉である。どれが命令形で記される用語か。それは「弟子としなさい」である。何となればこう訳すことができる。「あなたがたはすべての人々を弟子にしなさい。歩みつつ、洗礼を授けつつ、教えつつ」。教会の働きの現実を、短くみごとにまとめていると言っても過言ではない。
何より教会は、主イエスの弟子たちのいる場所である。ペトロから始まる弟子の群は、人間が作った人間の弟子集団ではない。自分の方が求めて入った集団でもなかった。ただ主イエスの方から声を掛け、選び、「主よ、お言葉ですから」と主の後について、ひとり一人が主と共に歩み始めたものである。そのために教会はいろいろな働きを行う。「常に歩み続け、救いのしるしのバプテスマを行い、主のみ言葉を語り、伝え、学んでいく」のである。しかし最も根本にあるのは、主の招きなのである。人は主イエスの言葉を聞くまでは、神のもとに来ることはできない。人間の言葉では、どんなに偉い人が言ったことでも、教会には来れないし、留まれないのである。だからまず「主の招き」があって、「ここに主の招きがある」と知って、そこに歩んでいき、それにひたすら仕えるのが、教会の働きということができよう。ただしそれは人間の思い計らいを超えているから、思わぬところに「主の招き」はあることは、覚悟しておく方がいい。
主イエスは「弟子としなさい」と言われる。これが唯一の命令なのだが、「弟子」という言葉で何を思い浮かべるだろうか。「弟子」は「師」とは違い、修行中の者である。不完全、不十分、未熟な者、途上にある者のことである。完成して、ひとり立ちして、自分だけで充分やっていける者、という訳ではない。キリストの群れの内実をよく表しているが、マタイはさらにこの「弟子」とは何かを、具体的に語っている。17節「イエスに会い、ひれ伏した、しかし、疑う者もいた」とマタイは伝えている。正直な告白である。イエスの群れに、教会の群れの中に、「信じない者、疑う者、迷う者、揺れ動く者」がいた、ときちんと語るのである。確かに教会の招かれる人々は、多種多様、さまざまな立場、運命、境遇の下にある人々である。以前、教会のメンバーと旅行に行ったとき、バスのガイドをしてくれた人が、「皆さん方はどんなグループなのですか」と真顔で聞いてきたことがある。世間の普通の団体ではない、不思議な空気、印象を感じたらしい。それは主イエスが招かれた故なのである。その招きのただ中に「疑う者がいる」、それもまた「弟子」たるゆえん、主イエスはそれを咎めずに、許しておられる。その間を揺れ動きつつ、に教会は歩んでいくのである。

こういう文章がある。「信仰とは、信じることにおいて迷いのないことなのでしょうか。そうではありません。私たちの生活は常に不条理に揺れていますし、私たち自身も常に愚かな迷いを続けているわけで、信仰もその点例外であるはずはないのです。人生の営みはすべて迷いの中にあります。ですから、迷いからの脱出を願うのではなく、迷いこそ正常な生の姿と受け止めることこそ大切です」。これを「健康な不信仰」と呼んだ人がいる。そう言う人間に「共にいる、世の終わりまで」と呼びかける主イエスがおられる。忘れてはならないだろう。