「不足することなく」コリントの信徒への手紙二8章1~15節

ドイツのなぞなぞに次の問いがある。「春は喜ばせてくれる/夏は涼しくしてくれる/秋は養ってくれる/冬は暖めてくれる、これは何か?」。お分かりの方もおられよう。「樹木」である。春には木々はみずみずしい若葉で目を楽しませる。夏には茂った葉で、涼しい木陰を作ってくれる。そして秋には果実や木の実等、豊かな実りを与えてくれ、寒い冬が訪れれば、燃料の薪にもなり、人の心と身体を温めてくれる。それぞれの季節に、その時々に、一期一会の今に、木々がもたらしてくれる豊かな恵みを表現している。しかし、緑あふれる木々は実際には、もっと多くのものをわれわれに与えてくれているそうである。ストレス解消やリラックス効果など森林がもたらす数々の効用が、今日、よく知られるようになった。

さらに森林浴によって怒りや落ち込みといった感情が和らぐのをはじめ、睡眠の改善、血圧の低下、免疫力の向上などの効果があるという。いずれもストレスを抱えた被験者らを対象に行った実験のデータで裏付けられている。特に注目されるのが、免疫をつかさどるナチュラルキラー(NK)細胞の活性化だ。ウイルスに感染した細胞や、がん細胞を攻撃するNK細胞の数が増え、免疫機能が高まる。森に漂う物質「フィトンチッド」の効果とされる。学者によると、森林浴は遠くの森林まで出掛けなくても、樹木のある公園や緑地でもできるそうだ。優しい葉ずれの音や緑陰、さわやかな香り…。木からの贈り物はいっぱいある。これもまたここ1~2年の、ニューノーマルの生活から、困難や痛みを覚える身近の中で、リアルに見出したことでもあるだろう。

さて今日は、コリントの信徒への手紙二の8章からお話をする。今日のテキストは、極めて教会の具体的な問題が語られている場面である。それは「献金」の問題である。教会にとって、これほど切実な問題もないだろう。この教会の会計役員は、本当に去年今年と、心配や痛みを感じながら、務めを果たして下さっている。そして、教会の皆さんがたも、その「痛みや心配」に決して無関心ではなく、思いを共にしてくださっていることをいつもひしひしと感じさせられている。

2節「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」。これはマケドニアの教会が、パウロによる募金の提案を、どのように受け止めたのかを伝える言葉である。まさに教会とは何かが証されている。しかも自分の教会を維持するための会計ではなくて、エルサレム教会への貧しい人たちを支援する募金活動、もう少し言えば、この時パレスチナでは、大規模な飢饉に悩まされ、人々は食べるにも事欠くような状況だったらしい。この時、エルサレム教会救援のための募金を、パウロは訴えていた。

このエルサレム教会救援募金への協力を、パウロはコリントの教会の人々にも求めたようだ。10節に「昨年から云々」とある通り、大分前からその募金活動は続いていたらしい。しかし、「今、それをやり遂げなさい」とパウロが勧めているように、当の募金活動は現在、停滞、中断という状態にあったようなのだ。なぜ停滞、中断したのか。

その理由は何か、これもまた悲しいが、教会らしい一つの側面である。即ち募金の呼びかけ人、使徒パウロに対する不信である。「やつは顔を見れば募金、募金とお金の話ばかりする」という具合である。さらに13節「他の人々には楽をさせて、あなたがたには苦労をかける」という批判・非難も噴出していたことであろう。自分たちばかり苦労している、大変な思いをしている。他の人は楽をしているのではないか。

どんなに善意からのことであろうと、お金をめぐってこのような批判、不満はどこの領域でも湧き出てくるものだ。現在の教会でも、こうしたことが教会の中で取りざたされ、ぎくしゃくするのも珍しいことではない。「神と富に兼ね仕えることはできない」とイエスは言われたが、一般にどうも信仰とお金は仲が悪い、相性が悪いようにみなされている。しかし「あなたの宝のあるところに心もある」と主は言われた。これは実にリアルな言葉である。

募金を募り、捧げる。多くは直接会ったことも、話したこともない、相手がどのような暮らしをしているかも、詳しくは分からないそのような中で、しかし絶えることなく小さなサポートを続ける。これはまさに「見えないものに目を注ぐ」という信仰的な目、まなざしが必要である。私たちの教会の、愛の業、対外献金の働きも、この教会の始めからの、極めて信仰的な取組みから発したものであった。教会はどこかで外の世界に開かれ、つながっていなければならない。そうしないと教会として歩めない。その姿勢が募金活動を生みだした。以前、遣わされた教会で、非常に高齢の方がその責任を担ってくださっていた。ストイックな方で、自分の昼食を抜いて、その分のお金を献金する、というようなことをしたから(おそらく貧しい人の痛みを共有するということであったろうが)倒れるということもあって、はらはらさせられたこともあった。そこまでやるかどうかはともかくとして、世界のことを自分のこととして覚えるというのは、実に「見えないものに目を注ぐ」、神への視点なくしてはできない行動である。

ここでパウロは募金が、単なるお金の問題を超えて、自分たちの生きる姿勢、信仰の問題であることを語るのである。10節「この件について」この翻訳はよくない。単なる募金活動という風に読めてしまう。そうではない。これは「イエスの愛の恵み」即ちあなたがたのために主は貧しく、低くなられた、この出来事を今、あなたはどう受け止めるのか、とパウロは問い質すのである。注意すべきは、11節、12節に繰り返し、ひとつの言葉が語られていることである。「今、持っているもので(やり遂げなさい、受け入れられる)」。昨日持っていたもの、ではない。明日持つだろうもの、ではなく、問題は今日である、今もっているもの、今のわたしなのである。信仰は常に「今」を問題にする。信仰は悔い改めと言われる。魂の方向転換である。それはどんな時であれ「もう遅すぎる」ということはない。しかし、「今」しないならば意味はない。そういうものである。

ある牧師が、礼拝説教について、こう語っている。ある時、礼拝が終わって、会堂の玄関のところで帰途につく信徒の方と挨拶(あいさつ)を交わしていると、ひとしきり列が途絶えた頃に、一人の方がつかつかとやって来て、こう言われた。「今日、わたしは礼拝に来ようかどうしようかと、とつおいつ悩みながらやって来たのですが、来てよかった。今日の説教で先生は〈にもかかわらず〉と三度おっしゃいました。〈なるほど、そうか〉と思いました。ありがとうございます」と深々とお辞儀をされる。

「まさかそんな言葉に反応が来るとは」と意外に感じ、「どうしたのですか」と聞くと、自営業を営むその方は、商売がうまく行かず、破産寸前の事態に追い込まれ、頭を抱えて教会にやって来たということであった。そこへ、〈にもかかわらず〉という言葉が耳に響いた。それも一度ならず二度、三度。「よし、それならもう一度やり直すか」という気持ちがどこからともなく湧(わ)いてきたというのである。人はその人の抱えた事情の中で説教を聞いていることをつくづく体感したひと時であった。

「にもかかわらず」という一言が、その言葉を聞いたひとりの人の「今日」に働いたのである。二進も三進もいかない今日という日、「にもかかわらず」神は働くのである。学生時代の恩師がこう言われた。「今、君のしていることが、君の最善なんだよ」。人はああしようこうしよう、もっと頑張れば、努力をすれば、と明日を考えて己を励まそうとする。しかし、信仰は明日ではなく、今に集中する。主イエスは「今日、生えていて、明日、炉に投げ入れられる野の花でさえ、このように今、装ってくださる」と教えられた。神は、いつも今日の最善を行われる。それにつながるのが私たちの信である。