祈祷会・聖書の学び エゼキエル書11章14~25節

「南北問題」とは、1960年代に入って指摘された、先進資本国と発展途上国の経済格差とその是正をめぐる問題。豊かな国が世界地図上の北側に、貧しい国が南側に偏っていることから南北問題と呼ばれる。この問題が提起されて久しいが、情勢にいくらかの変化はあるものの、依然として全世界の大きな課題であることは、間違いはない。

つい最近、コロナに起因するこの国の「南北問題」が、しばし話題となっている。「東京都心から西に約18キロ。三鷹市にあるJR三鷹駅は二つの自治体にまたがって立地する。北口があるのは武蔵野市、南口は三鷹市。いずれも繁華街があり飲食店などが並ぶ。この境界線が意外な『南北問題』を引き起こした。東京が『まん延防止等重点措置』に追加された4月。北の武蔵野市は時短営業要請の対象となった一方で、南の三鷹市は外れた。同じ駅なのに北口の飲食店の営業は午後8時まで。わずかな距離を南口に行くと午後9時まで。ちぐはぐな線引きとなった」(6月1日付「河北春秋」)。

「衣食住」は、人間のもっとも基本的な生活の条件であるが、その中でも「居住」は一番人間の生を左右するものであろう。極端に言えば、人間に必要なスペースは、「起きて半畳、寝て一畳」だろうが、そこに住むことによって生じる人間関係、近所付き合い、地縁、血縁は、生活に色濃く影を投げかけるものである。

聖書の民イスラエルにとって、最大の歴史的事件は、「出エジプト」と「バビロン捕囚」の出来事であったと言えるだろう。そのどちらもが居住の問題に関わっている。もっとも前者は「乳と蜜の流れる約束の地」への導入であり、後者は、その地からの追放という正反対で対照的な出来事を示しているのであるが。

紀元前587年、新バビロニア帝国はエルサレムに侵攻し、神殿を破壊し、南王国ユダは滅亡する。この際、エルサレムの主だった人々は、虜囚としてバビロンに拉致され、そこに居住区が設けられ、人々は異国での生活を余儀なくされる。この出来事以前に、紀元前722年には、北王国エフライム(イスラエル)が、アッシリアによって滅亡させられ、この時もそこに住む人々は、バビロンに連れ去られる。イスラエルの人々はバビロンに追放された後、歴史からその足跡を消してしまう。即ち、そこに「捕囚」という政策についての征服者の強い意図がある。生来の土地から引きはがせば、人間は固有の文化や誇りを失い、異国という新しい環境に容易く同化すると考えるからである。そうすれば反乱防止に非常に寄与するという訳である。おそらく北王国の住民は、アッシリアにまったく同化してしまったのであろう。

南王国ユダの人々にも、「バビロン捕囚」の際には、同じ試練がのしかかったのである。ユダの若干の住民は、国の滅亡後も、エルサレムに住むことを許されたようだ。町の大方は廃墟であったろうが、廃材を利用して、バラックのような住まいを建て、細々と生活を営んだことであろう。それでも何年か過ぎれば、そのような生活も軌道に乗って生活の地盤が整えられてくる。するとそこで生活する既得権が生じるのである。

今日の聖書個所には、敗戦後のエルサレムに残された人々の生の声が伝えられている。15節「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』」つまり、「捕囚民」に対して、自分たちの正当な居住権を訴えているのである。とりわけ「主から遠く離れておれ」、厳密に訳せば「あなた方は、(捕囚によって)ヤーウェ(神)から遠く離れてしまった(のだから居住の権利は喪失したも同然である)」。

かつての同胞、同じ国の民からこう告げられたら、捕囚民の心は、大きな失望と嘆きに満たされたことであろう。もう自分たちは、自分たちの神から切り離されたのだ、このバビロンに根を下ろし、埋没して生きるしか道はないだろう。数百年前に、北王国の捕囚民は、それで消失する運命をたどったのである。ここに預言者エゼキエルは、ユダの一番の危機を見て取るのである。

古代の人々にとって、「神」とは、その土地に根ざす「土着の神」のことを指していた。そこに住む住民に恵みを施し、恩恵を与える自然神なのである。だから住民は、土地の神を喜ばせるべく、いろいろな供犠をもって、懇ろに神をもてなし、祀るのである。そうすれば一層の恩恵を享けることができる、という訳である。しかし土地を失い、一度そこから去るならば、神とは絶縁となり恩恵もまた絶たれるのである。パレスチナに土地を得てから長く時を過ごして来たイスラエルの人々にとっても、それはすでに常識になっていたことだろう。

そこでエゼキエルは、捕囚の民に、エルサレムから離れざるを得なかったゆえに、すでにアイデンティティを失いかけていた人々に、次のように語りかけるのである、「それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』」 つまり人間の側で、その土地を離れ、神から離れたとしても、イスラエルの神は、離れて行った者たちに、無関心な方ではない。彼らが行った場所に、神の方から赴いて、共にいるだろう。確かに豪奢な神殿ではないが、誰でも気軽に訪れ、心安んじて礼拝することのできる場所を作るだろう、というのである。ユダの人々が、バビロンに埋没せず、形を失わず、半世紀の捕囚の後に、祖国に帰還できたのは、さながらエゼキエルの言葉によって、励まされ力づけられたからに他ならない。

但し、このエゼキエルによる告知も、目新しいことで決してない。イスラエルの神は、聖書の民が寄留者として、さすらいの生活を営む最初の時から、「荒れ野で、遠くから現れ、出会ってくださる神」なのである。人間がどこにいようと、いなくなり、失われようとも、自分から探し求め、見出す神なのである。人間は東と西、あるいは南と北に線を引いて、区分して、境界を設けて、自分の誇りを主張しようとする。しかし神は、そのような人間の小さな線引きなどは問題にされない方なのである。