「姿が目の前で変わり」マルコによる福音書9章2~10節

「にこやかに マスクの下で 『うっせぇわ!』」。目には笑みを浮かべながら、マスクで隠れた口では動画サイトで話題になった曲の歌詞に合わせて悪態をつく。現実にもありそうな光景が、切り取られている。ある生命保険会社が公募した「サラリーマン川柳」の入選作のひとつである。マスクで隠された中に、まことの真実がある、というのは、人間の性であるのか。

こんな文章がある。「人間の目はカメラのように物理的にものをとらえているわけではなく、そこにいろいろなことを補完し、さまざまな情報を付加している。わかりやすい例が、日本の『かわいい文化』を代表するハローキティだ。『キティちゃんには口がありません。それはぬいぐるみを前提に作られているからです。お友達としてそばにいるので、その時々の持ち主の気持ちをうまく当てはめるために、あえて口をなくしています。口のないキティちゃんは自分が笑っているときには一緒に笑ってくれている気がするし、悲しいときには悲しんでいるように見える。持ち主の気持ちに寄り添えるようになっていて、非常にうまくできているなぁと感心します』」。キャラクターに口が付けられていないことにも、ちゃんと意味があることに、驚かされる。

「『コロナ以前も、保育士さんたちは冬になるとマスクをすることが多かったのですが、マスクに大きくUの字を書き、笑っていることがわかるようにしていた方たちがいました。幼児が人間の顔を描けるようになると、口は必ず大きなUの字で表現します。幼児にとってUの形の口は安心でき、自分を受け入れてくれているサインなのです。幼少期に笑顔に触れる機会が極端に少ないと、ネグレクトを受けた人と同じ状態になる危険性があるという。ネグレクトの場合は成長してから精神に不安が生じたり、鬱になる可能性もある。ソーシャルディスタンスといいますが、人生にはソーシャルにディスタントであってはいけない時期というのがあると思うんです』(川合伸幸、心理学者)」。

今日はマルコ福音書9章から話をする。先週、ペトロの信仰告白で、初めて人によって主イエスへの信仰が、公に、はっきりと口にされる場面を読んだ。十字架と復活抜きの信仰告白、十字架から目を背けてしまうような信仰の言葉は、空しく虚偽であることが告げられた。今日の個所もまた、前と密接に続く物語であり、同じことが告げられている。9節「一同が山を下りるとき、イエスは『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに言われた」。ここでも再び「沈黙命令」が繰り返されるのである。

前節では、信仰告白を「行うこと」が問題にされた。十字架を見ずに、あるいは無視して、目を反らして告白をおこなうことは、初代教会でも大きな誘惑であった。使徒言行録の中に、パウロがアテナイのアレオパゴスで説教した。暇を持て余していた市民が大勢、珍しがって彼の説教を聞きに来た。ところが彼はまともに、主イエスの十字架と復活の話を人々に語ったのである。するとどうなったか。「そういう(ヨタ)話は、いずれまた聞くことにする」と皆、立ち去ったのである。だから伝道のため、人集めのため、あえて十字架を語らずに説教する伝道者も多くいたのである。なぜなら「十字架」は、ローマでは、無法者、反逆者、強盗に課せられる刑罰であり、ユダヤでは神から呪われた者への仕打ち、「呪いのしるし」だったからである。どうしてそんなとんでもない人間が、「キリスト、救い主」であるのか。

今日の個所では、さらに一歩進んで、そもそも「キリスト」とは何であるのかが、問題にされるのである。皆さんは「キリスト」という言葉を聞く時に、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。古今東西の画家たちが、様々に聖書の場面を絵に描いて、視覚化してくれている。そういう目からの影響も受けるのだが、やはり根本では聖書の言葉を手掛かりに、そこから「わたしのイエス」というイメージを心に描いていることだろう。それを絶対視してはならないだろうが、過小評価することもしてはならない。だから教会という場で聖書を読み、信仰の友輩と語り合い、そのイメージを温め、豊かにしていくのである。そうしたらただの水も、いつかは芳醇なぶどう酒に変わるのである。

初代教会の時代、福音書が書かれた頃、人々は「キリスト」と聞くと、どんなイメージを思い浮かべただろうか。そもそも「キリスト」とは、抽象的な観念ではなく、明確な具体像を持っている言葉だったのである。「キリスト」とはある特定の人物を指していた。誰か、それは「ローマ皇帝」である。人々は、ローマ皇帝が公に姿を現すと、口々に「我々のキリスト、わが救い主」と呼びかけたのである。そのいで立ちはどのようであったか。「凱旋式の日、将軍はレガリア(王位の象徴)として月桂樹の冠をかぶり、金糸で刺繍した紫色のトガを着用した。これはその将軍が、半ば神聖で、君主に近い存在と認められていたためであり、その顔を(神であることを示す)赤く塗ることも知られている。凱旋将軍は4頭立ての戦車に乗り、非武装の兵士、捕虜、戦利品を従えてローマ市内を行進した」(weblio)。

「顔を真っ赤に塗って、誇らしげに凱旋する将軍」は、皆さんのこころに描くキリストの姿であるか。しかし、当時の人々にとっては、「キリスト」とはそんな様子なのである。だからユダヤの田舎ナザレ村の大工のせがれで、十字架に付けられて死んだ、あのイエスが、どうして「キリスト、救い主」などと言えるのか、教会はそう問われたのである。その応答として、今日読まれた聖書個所が語られたのである。主イエスは全く人の姿でこの世に生まれ、地上の世界を歩まれた。神のみ姿を隠されて、身を低くして生きられた。だから人々は公に、その栄光のみ姿を目に見ることはできなかった。しかし決して、神の栄光を失っておられたのではなく、ほんの極くわずかな弟子たちには、それを示されたのである、と。

2節「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」。ローマ皇帝が「赤」で勝負するなら、こちらは「白」だ、という訳ではないだろうが。皆さんは、こういう「キリスト」が好きだろうか。この異様な光景を観たペトロは、何を言って良いか分からず、頓珍漢な言葉を発している。5節「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。しかしこれもまた「信仰告白」なのである。そして、もしも十字架から目を反らして語るなら、信仰告白は、「仮小屋を作りましょう」程度なものとなり、教会もまた「仮小屋(まがいもの)」と化するであろう。まことの救い主のいます所にはなりえないのである。

7節「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。「雲」は神の臨在のしるしである。神のいます所には、必ず雲が沸き起こり、すべてを人の目から隠すのである。神は自らを隠される神である。それ程人間は見えるものに頼っているし、見えるものを信じているし、惑わされるのである。神は見えるものを隠される。見えないと人は恐れるし、どうしたらいいか分からず、おじまどうのである。しかし見えない雲の中に、神はちゃんといますのである。

ウクライナの民話に「小さい白いにわとり」という話がある。「小さい白いにわとりが、こむぎのたねをもってきて、みんなにむかって言いました。だれがたねをまきますか。ぶたはいやだと言いました。いぬもいやだと言いました。ねこもいやだと言いました。小さい白いにわとりは、ひとりでたねをまきました」。

「小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。だれがむぎをかりますか。ぶたはいやだと言いました。いぬもいやだと言いました。ねこもいやだと言いました。小さい白いにわとりは、ひとりでむぎをかりました」。

この後、「だれが粉にひきますか?」と尋ねても,「だれがパンに焼きますか?」と尋ねても,答えはやっぱり皆は「いやだ」。小さい白いにわとりはひとりで粉にひき,パンに焼きました。

「小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。だれがパンをたべますか。ぶたはたべると言いました。いぬもたべると言いました。ねこもたべると言いました」。

物話はこれで閉じられる。教訓めいた結末もない。小さい白いにわとりは、ぶたといぬとねこと共にいて、言葉を語り続けるのだろう。そして皆で一緒にパンを食べるのだろう。「白い小さなにわとり」とは誰か、が気になる所である。皆さんにとっては、誰だろうか。

見えない雲の中に、み言葉が響く「これはわたしの愛する子、(ただ)これに聞け」。そのように語られる神の、そのひとり子が、すぐ目の前に、私たちと共におられるのである。私たちと変わらぬ姿で、共に山を下りられるのである。