「希望の内に」使徒言行録2章22節~36節

今日、6月の第三日曜日は「父の日」である。はっきり言って「母の日」と比べて明らかに分が悪い。カーネーションの花がないばかりか、所謂、華がない、ぱっとしないのである。「父の日」そのものが忘れられていることも多い。「何を祝うの、どうして祝うの」という感じである。ひとつ他所の国の「父の日」の様子を紹介しよう。ドイツの「父の日」。こう紹介されている。
ドイツ語で 「Vatertag」(ファーターターク)といいます。その日に行われる変わった習慣があります。父の日と言っても、父親に感謝を表す日というよりは「男のため、父親を含む男性たちが飲んで騒ぐ日」です。 イースターの復活祭から数えて6週目の木曜日でもあり、キリスト教の祝日、イエス・キリストが昇天したことを祝う「昇天日」です。
この日の過ごし方をもう少し紹介しよう。
早起きする必要がない祝日なので、まずはゆっくり朝寝坊をします。そして、若者から年配者まで、多くの人がグループで集まって、大きな公園や山や森林で散歩をし、歌ったり、歩き回ったりします。その後、欠かせないものが、手押し荷車に山盛りに乗せてきたビールなどのお酒やつまみです。宴会が始まるとみんな段々と酔いはじめ、騒ぐ人も少なくはありません。そして夕方になると、仕上げに皆でパブに繰り出し、飲み直します。
なぜ主イエスの昇天日が「父の日、男の日」になったのか、理由は定かではないが、伝統的な父の日は、若いお父さんに父親としてのマナーや作法などを教える日とされていたようだ。昇天によって、主イエスがいなくなった、目に見えなくなったことで、自分たちがしっかりせねばと、男たちが気合を入れたことに遡る、という説明もなされる。まあ気合を入れてうまく事が運べばいいのだが、拳に込めた力が空回りすることもしばしばである。今では「酒飲みの日」となっている。うらやましい、と思うか。

ところで「父親としてのマナーや作法」とは何だろうか。しかも「若いお父さん」に、つまり、まだ子どもが幼い頃、子育て時代の父親ということである。何を指しているだろうか。どう思われるか。何を表したら、父親らしいのか。
随分以前、半世紀ほど前に、ある雑誌(暮らしの手帳)にこう書かれていた。昔の親は、子どものことにいつもは無関心、普段はまるでやっかいものであるかのようにふるまっていた。ところが一たび、子どもに何かあれば、子ども以上に熱中して、子どものために一生懸命になる。これを世の人は、暖かな思いをもって「親ばか」と呼んだのである。ところが今は、子どものことが全く見えない「ばか親」ばかりである。この文章を思い出しながら、結局、親が子どもに表すことのできる一番最善のものは、「安心」なのではなかろうか。そこにいることで、何もしなくても「ああ大丈夫だ」、と感じさせる「安心」感、親子の問題ばかりでなく、現代最も求められているものが、実は「安心」なのではないか。
今日の聖書個所は、ペンテコステの出来事に続く、「ペトロの説教」の場面である。聖霊を受けてからのペトロの姿には、一番弟子の面目躍如たるものがある。かつての頓珍漢なふるまい、あるいは師匠の一大事に、眠りこけ、逃げ出し、否認する彼とは、大違いである。人間変われば変わるものだ。世の様々な国々から来ている多様な人々を前に、大演説をぶつのである。彼が語りたい一番のことは何か。まったく同じ言葉が、言い回しが繰り返される。24節「神は、このイエスを復活させられました」、次いで32節「神は、このイエスを復活させられたのです」。この文章の主語は、働きの主体は、「神」であって、「イエス」の復活は受け身である、と語るところに特徴がある。「イエスが復活した」のではなく「イエスは復活させられた」というのである。そしてこの言葉こそ、初代教会の最初のケリュグマ、信仰告白の言葉、宣教の言葉だったのである。弟子たちが語り出した。教会が宣教を始めた。一体、最初に何を語ったのか。それは「主イエスは復活させられた」とのみ言葉である。

主イエスが十字架に釘付けにされた時、主イエスが最期に「エリエリレマサバクタニ」と叫ばれた時、人間の目には、ただ絶望だけがそこにあった。痛ましくも、血を流し苦しむ主イエスを、神は助けには来なかったし、主の言葉通り、人々は、神は主イエスを見捨てたのだ、主は神から見捨てられたのだ、と思った。人間が神の子を殺したのであると。
今日のペトロの説教は、直訳するとすさまじい終わり方をしている。36節を語順通りに訳すなら、こうなる「神はイエスを主とし、キリストとされのだが、あなたがたが、その方を十字架に付けて殺した!」。もちろんこの「あなたがた」には、弟子のひとり一人も含まれている。ペトロは自分には関係ないよ、自分は殺してないよ、というのではない。自分が、弟子のひとり一人が、そしてユダヤ人皆が、わたしやあなたが、主イエスを十字架に付けて殺したのだ。
私たちの目が、主イエスの十字架を見上げるときに、そこに見えるものは、まさしく人に捨てられ、神に捨てられ、苦しんで死んだ主イエスなのである。神は何もしていないではないか、神はこの世の苦しみを、悲惨を無視しているではないか。
ところが3日の後に、弟子たちが示されたことは、主イエスがよみがえり、自分たちのそばに現れたという突拍子もない出来事であった。それは、主の十字架という人間の悲劇と絶望と無力さが露わになったところで、目に見えない神が、目に見えないみわざをもって、大胆に働かれるという証でもあった。人間が見捨てたところで、人間に見捨てられたものに、新しい生命が与えられる、それが目には見えない神の力である。これを告白する言葉こそ「神は、主イエスをよみがえらされた」という最初の教会の言葉なのである。

しかし、人は訊ねるだろう。「神が、主イエスをよみがえらされたことに、どんな意味があるのか」、「それで何が変わるのか」。「酔っ払いのたわごとだろう」。これに答えてペトロは人々に大きな慰めを語る、詩16編のみ言葉をもって。この詩はダビデの手になるものとされているが、詩編の中でも味わい深く、慰め深い章句が語られている。25節「わたしは、いつも目の前に主を見ていた/主がわたしの右におられるから/わたしは決して動揺しない」。私たちは自分の目の前に何を見ているだろうか。人を見れば、己れと比較し、思いは裏切られるから失望するだろう。自分を見るなら、ましてや情けなく思い通りにならないので絶望するだろう。大きく揺れ動き動揺するのが人間、誰しもである。揺れが大きくなりすぎて、動揺があまりに激しくなれば、転覆して倒れ伏してしまうだろう。しかし自分の右に、すぐ近くに主イエスがいらっしゃれば、私が転覆し倒れ伏そうとするときに、支えてくださる。つっかい棒となってくださる。だから詩人はこう歌う。26節「だから、わたしの心は楽しみ/舌は喜びたたえる/体も希望のうちに生きるであろう」。「体も希望のうちに生きる」。この本文はギリシャ語訳の詩編の言葉によっている。「希望」と訳される用語は、ヘブライ語では「安息、安心」を表している。この個所の翻訳は興味深いことを示唆している。「希望」とは「安心」のことなのだ。安心があるところに、希望は生まれて来る。希望がある時、人間は安心して生きることができる。主イエスが復活されて、否、神が主イエスを復活させられて、目には見えないが、いつもわたしの人生の傍を共に歩んでくださっている。これほどの安心がどこにあろうか。

キリストの昇天の記念の日に、目に見えるキリストとのお別れの日に、男たちが、父親たちが、野に行き、山に登り、飲んで食べて歌いつつ皆で楽しむ。ドイツ流の父の日とは、人間のまことの安心がどこにあるのか、私たちに教えてくれるものであろう。「体は安心のうちに生きるであろう」。