「平和があるように」ヨハネによる福音書20章19~31節

「今どきの子は本を読まない」、この嘆きは、ソクラテスの時代にまで遡るらしい。去る2月10日に、『こどもの本総選挙』なる催しの結果発表が行われた。正式には「小学生がえらぶ!“こどもの本”総選挙」とは、全国の小学生の皆さんに「今まで読んだなかで1番好な本」に投票してもらおうという企画である。「なんども読む本」「忘れられない本」「宝ものの本」…などみなさんにとっての「最強の本」を教えてください、と銘打たれて子どもたちに呼びかけられ、これに応えて、第4回となる今年は、なんと14万4188票もの投票が集まった、という。コロナ禍を経て、ようやくたくさんの人が集まっての発表会が開催できることに、事務局長の岡本大(だい)氏は「たくさんの小学生に来場してもらい、結果発表をわかちあえることが楽しみでうれしい。1人でも多くの子どもたちに、新しい本と出会う喜びを届けたい」と語っていた。

そこで第一位の栄誉に輝いたのは、ヨシタケシンスケ氏の作品『りんごかもしれない』

(2013年 ブロンズ新社)であった。絵本というより、イラスト・エッセイに近い体裁である。「テーブルの上にりんごがおいてある。でも、もしかしたら、これはりんごじゃないかもしれない」。少し味わってみよう。「りんご」という対象についてではなく。「かんがえる」こと自体を、際限なくいろいろに楽しもうというような、「発想絵本」とでも評することが出来ようか。

著者のデビュー作であり、『“こどもの本”総選挙』では過去4回(つまり8年間)連続トップ10入りの人気作だという。受賞に際して作者はこうコメントしている。「40歳になったときに初めて『絵本を描いてみませんか』と言われ、できると思ってなかったけどまさか本になった。それを、10年経ってもずっと読み続けて、おもしろがり続けてもらえることに、僕自身ビックリしながら感謝しています。これからみなさんが大きくなるまでの間、先のことを考えるときに『かもしれない』って言葉を上手に使いながら、楽しく過ごしていってもらえたらうれしいです。」この本には作者自身の生き方が写されている。

目の前に客観的な証拠を示されて、「そうだ」と納得する、あるいは確実だと思うことは、現実的な判断だとは思うが、それで「楽しい」かどうかは、また別の事柄である。「信じる」という場合、そこには具体的な「証拠」が必要なのだろうか。「人(誰か)を信じる」というような場合、判断基準は何なのだろうか。自分に都合よく、好ましいように振舞ってくれる、あるいは裏切らない、期待外れでない、ことを意味するなら、おそらく「信じる」ことは到底無理である。人は必ず裏切るし、期待外れだし、自分の都合よく振まってはくれない。自分の都合ばかり言っていたら、一切関係など持てないだろう。

「かもしれない」というところで、人間と人間との関係は成り立っているのだろうし、意外な側面を見い出したり、びっくりさせらりたり、安心させられたり、そういうあいまいな結びつきがそこにはあるのだろう。そのあいまいさを受容することができるか。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方」のことだったという。その日の朝、マグダラのマリアが主イエスの葬られた墓の異変について、ペトロとヨハネに走って知らせ、この二人の弟子もまた走って墓へと赴いて、主イエスの身体が消え失せたことを確認したのである。それでも弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた、という。古代では、誰につくか、何者に従うか、頼りにするかで自分の人生が決まったとされる。出世し栄達の道をたどる有力者と関係を持てれば、自分の出世、渡世の安泰にもつながるのである。ところがその頼みの綱が没落すれば、自分の身も破滅する。頼りにし、拠り所としていた有力者が居なくなれば、自分の希望も失なわれ、人生を諦めなければならなくなる。ユダヤ人を恐れ、堅く鍵をかけて扉を閉ざし、息をひそめて一つの部屋に閉じこもっている、とはそのような状況である。

一説に、そこは「最後の晩餐」が行われた部屋であったとも伝えられる。弟子たちは、せめて愛する主とついの時を過ごした場所で、ひと時、主の在りし日の懐かしい思い出に浸ったのかもしれない。そこへ、当の主イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだという。「主を見て喜んだ」と伝えられるこの「喜び」が何であるか、それはこのイエスの言葉に手掛かりがあるだろう。これは何よりユダヤのいつも普通に交わされる挨拶のことば「シャローム」であろう。かつて主が十字架に付けられる前、毎日のように顔を合わせるたびに、「おはよう、こんにちは、こんばんは」と当たり前に投げかけていたあの挨拶の言葉が、いつもと変わらない声色で、調子で、響きで語られたのである。しかもシャロームとは、「平和、平安、安心」の意味である。弟子たちのこころに、それこそ無上の安心、安堵が広がったことであろう。復活とは、証拠とか証明という権威筋のお墨付きのようなものではなくて、主と共にある「安心」のことに他ならなかった、安心が回復され、再び取り戻された、ということであろう。「主を見て喜んだ」、安心が拡がったのである。安心があれば、固く閉ざされた扉を開くこともできる。

ところがここに一人、この時にその部屋にいなかった弟子がいた。その弟子の名はトマス、福音書の記すところでは、彼はマタイ(収税所の役人?)と相前後して、主に呼ばれて弟子の一人となったようだが、その素性や職業、人となりは不明である。なぜ外出していたのかについては、昔からの言い伝えがある。彼は食料係であり、皆の食べる食べ物を調達する役割を担っていたというのである。この日もたまたま食べ物の買い出しに出かけていた。丁度、間の悪いことに、時を同じくして、復活の主が、弟子たちの前に姿を現されたのである。彼が戻った時に、他の弟子たちは、復活の主がここにお出で下った、と喜びを隠し切れないで、色めき立っている。その一同の様子を見て、トマスは心底、腹立たしい思いであったろう。なぜよりによって自分がいない時に、主がやって来られるのか。そもそも自分は、わがまま勝手して不在だったわけではない。皆の食べ物のことを心配し、買出しに行っていたのだ、いわば公用だ、それなのに、自分だけが除け者にされたか、意地悪をされているのか、と感じられたろう。だから残念でやりきれない、満たされない思いが、激しい言葉となって、ほとばしったのである。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」機会を逸したことが悔しくて、悪態をついているのである。「君たちは幻を見ただけじゃないのか」。この台詞から「疑いのトマスDoubting Thomas」という余りありがたくない呼び名を後の世から与えられたトマスだが、彼の言葉には、「不信や懐疑」というよりも、却って「主にお会いしたい、直に顔と顔とを合わせて確認したい」との熱い思い、非常にまっすぐな心の発露、という印象が感じられる。

皆さんはかの絵本『りんごかもしれない』の結末がどうなるか、興味を持たれるだろうか。最後のページを示してしまうと、ネタバレになるからそれは控えるとして、大体、皆さんの予想のように展開する。つまり相手は「りんご」だから、いろいろ「かもしれない」思いは遥かに拡がっていくとしても、(皆さんの「かもしれない」は小さすぎないか)、最後はやはりそこにたどり着くだろう、というような結末である。

主イエスはトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。自分の目と耳と手足の感覚で、実際に触れてみる、というのが「確かめる」ことの必然ではあろう。しかしそれだけが確実であるなら、私の生きる世界は何と小さく貧弱で、つまらないものだろうか。ユダヤ人を恐れて、鍵をかけて部屋に閉じこもる弟子たちのようである。神は私たちを広々としてところに連れ出すのである。それが神の救いのみわざである。手と足の傷に手を差し入れて、確かめるだけで、広々とした世界は拡がるだろうか。

よみがえりの主イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」、主イエスとトマスの間に交わされる言葉で、繰り返されるのは「信じる」という用語であるが、これは本来「誠実」や「信実」を意味する言葉である。私たちはすべて嘘や偽り事で人生を塗り固めて、自分に都合よく、世渡り上手に振舞うことで、よく生きられるものでもないだろう。それでは、「喜び」とか「安心」は生まれてこないだろう。奇も衒いもなく、怯えることなく、臆することなく、親しく「こんにちは」と呼びかけることができるひとや何ものかがあるなら、そこにこそ私のまことの喜びや安心があるだろう。それは本来目には見えないものだろう。たとえ見えなくても、それは確かにここにあるのである。それによって生かされるのである。