祈祷会・聖書の学び エフェソの信徒への手紙5章1~14節

先輩の牧師がつくづく語ったことがある「すべての子育ては失敗である」と。何をもって「失敗」と言われているのか、具体的には語られなかったが、その時、ひどく共感を覚えた記憶がある。そんなことを言うと、実の子どもから叱られそうである、「失敗」で済まさないで欲しい!

あるテレビ番組で、歌手、俳優の武田鉄矢氏が子育ての悩みについて応答していた。番組内では、息子の就職が決まった人からの相談で、親として、「子どもの自主性」を尊重し、言いたいことを我慢してきたと語り、「本当に子どもが選んだその道でいいのだろうか」と心の中で悩んでいるという。それに対して、武田氏の見解は次の様であった、「子育てはすべて失敗します。成功したと感じる人は、実は良くないかもしれません。子育ては、失敗を経験することで、その中から何かを学び取るのが大事」というものであった。そして自身の体験から、「子は親を裏切るような方法で自分の道を切り開いていく。それが子育てが上手くいっている証拠だ」と語ったのである。「親(の願い)を裏切ることが、子育てにとっての成功」という、いわば逆説的な見解に対して、皆さんはどう感じられるだろうか。

今回はエフェソ書5章に目を向けるが、この書簡はパウロの名によって書かれているものの、文体、用語、思想等がパウロの真正の手紙とは異なるので、無名の著者による偽パウロ書簡と考えられている。現代のように「著作権」という感覚のない時代、有名人の名を用いてその権威にあずかることは、実に正当なこととされた。コロサイの信徒への手紙(これも偽パウロ書簡のひとつ)とよく似た構成、内容を持っており、コロサイ書を前提にした書き方がされているので、それを強く意識した著者の手になるものであろう。紀元1世紀の終わり頃に書かれたものか。もうすでに教会の組織も制度もある程度整っていたのだろう。終末の遅延によって、当初の信仰的緊迫感を失い、弛緩した心を引き締め、励ます目的で記されたと考えられる。

特に、エフェソ、コロサイ両書簡には、「家庭訓」と呼ばれる、夫婦や子ども、召し使いへの勧告の言葉が記されており、初代教会の早い時期には、終末への待望が顕著であったから、家庭生活を始めとする日常については、いわばなおざりな感覚であったのに、これらの書簡では、信仰生活の中心的な課題として取り上げられていることも、その時代性を証しするものであろう。

1節に「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と記されるように、信仰論が子どもの養育、教育をと絡めて議論されていることに特徴がある。信仰者を「神の子ども」になぞらえるのは、新約後期文書の特徴であるとされるが、子どもの「無垢」さが、信仰のあるべき姿に喩えられたのである。現在では子どもの純粋さがノスタルジックな感傷と共に称賛されることもしばしばであるが、(但し純粋さとは、残酷さにも通じる)古代においては、「子どもらしさ」とは未熟で未完成な早く脱却すべき負の課題であったのである。それがどうして信仰の手本のかについては、議論ある所だが、やはりその源には、主イエスのみ言葉にその根があるだろう。「子どものようにならなければ、神の国に入ることはできない」、これは古代の常識的な価値観を揺るがす逆説でもあったのである。

古代の教育観では、子どもは「親に倣うべきもの」とされたのは言うまでもない。親の職業を受け継ぎ、早く親の手助けをする労働者になることが、子どもの使命だったのである。ところが実の親は、どのように優れた資質を持っていようとも、人間的な欠けを持つ存在である。「神に倣うもの」という勧めがなされることには首肯させられるが、本来神は目には見えない存在であるから、形や振る舞いを真似ることはできない相談である。ここでは神のように「完全」になるという意味ではなく、子どもがいつも親に付きまとうように、神と離れず、いつも心から慕うという観念的イメージで語られていると言える。

ところがやはりこれだけでは説得力に乏しいと考えたのだろう、一歩進んで「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と言葉が付加されて、信仰的「子どもらしさ」が何かを、付加的に説明しようと試みている。ここでは「香りのよい供え物」と表現されているが、文字通りには、神殿で焼いて献げる犠牲の動物のことであり、それが象徴化されているのである。良い香りは、目に見えないが、それが周囲に拡がって、人の心を楽しませ、刺激するように、神もまた良い香りを喜ばれるだろう。但し神が喜ばれるのは、詩編詩人も詠うように、供せられた「犠牲」ではなく、「愛のわざ」こそが、神への最上の応答、供え物なのである。肉の親でさえも、子どもの愛の籠った言葉や振る舞いに涙するではないか。実に愛の育まれる場所、つまりその源である心のあり様は、余人の目には見えない「香り」のようなものである。そして本来、「愛」の真実な姿は、人に対してではなく神への奉仕として現れるのである。「愛によって歩む」という具合に、信仰者の生きる姿勢を「歩み」に譬えている。落ち着いて、あせらず、一歩一歩(今日)を大切に生きる。それこそが「愛(神への応答)」の具現化と言えるのではないか。

「子育て」について、福音書のとある個所がいつも心に浮かんでくる。マルコによる福音書3章21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」、さらに31節「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え」たという。どうも主イエスは、家族の期待や願い通りに生きられた方ではなかったし、身内の者たちにいろいろ心配をかけたようである。そういう家庭生活があって、主イエスの公生涯が形作られたことに、深い感慨を抱くのである。おそらく家の者たちは、主イエスの公生涯の真実について、本当に理解したかどうかはあやしい、それはすべての人間にとっても同じである。しかしそこに神の栄光があらわされる。それは主イエスのみならす、すべての子どもの成長の道のりに、見事に現わされるのではないか。