祈祷会・聖書の学び エゼキエル書39章22~29節

コロナ禍で、ここ数年間、これまで親しく交流していた老人ホームや施設を訪問することがかなわなかった。未だ感染の恐れがまったくなくなった訳ではないだろうが、施設に訪問の申し出をしてみると、「十分に配慮をした上で」と、訪問が許可された。こうして、今年、久しぶりに、私たちの教会の子どもの教会で、「花の日・子どもの日」訪問が再開できる運びとなったのである。小学生とリーダーや保護者の方々、十数名が、お年寄りが暮らす施設を訪れ、お花とカードを手渡し、交流することができたのは、大きな幸いであったろう。

最初は緊張気味で強張った表情の子どもたちも、お年寄りの笑顔に迎えられて、自分たちも笑顔になって、ひとり一人にお花とカードを手渡した。その時、お年寄りから「ありがとう」と言葉を掛けられて、皆、うれしそうであった。人間のふれあいは、ただ与えるだけ、受けるだけ、という関係ではないことが、ここでもよく表れていた。その後、一同で、讃美歌の「主われを愛す」を歌った。そこにいる人たち全員で歌える歌を、皆で歌いたい、ということで懐かしい唱歌「ふるさと」を歌った。すると今まで車いすの上で、目をつむり眠っていた方が、目をぱちりと開け、大きな声で歌い出したではないか。歌の持つ力を改めて知る機会ともなったが、その方が目を開けたのは、「ふるさと」がただ懐かしい歌だったというだけではないだろう。

今日の聖書個所は、預言者によって語られたバビロン捕囚民へ託宣で、故郷への帰還が語られている。南王国ユダの人々は、バビロニアによって祖国を滅ぼされ、ソロモン王が築いた麗しいエルサレム神殿を崩壊させられ、自らは「捕囚民」としてバビロンに捕らわれて行った。この出来事は、ユダの人々にとって「不信の行為」により、「神が顔を隠された」という出来事に他ならなかった(23節)。かつて彼らは、神ヤーウェの顔を避けて、自らの力によって、己の栄光を追い求め、大きくしようと試みたのである。ところが相手は、「マゴグのゴグ」のような大帝国である。怨敵のバビロニア帝国はあまりに強大であり、その軍事力も財力、国力も、ユダの敵ではなかったのである。聖書の民にとっては、それはまるで伝説の「マゴグのゴグ」に等しいものとして、目に映ったことであろう。素より非力なユダ・イスラエルは、ひとたまりもない。神ヤーウェは御顔を隠され、民は敵の手に渡されたのである。

イスラエルにとって、一番の危機は、周囲の大帝国が蓄える強大な軍事力ではない。聖書の民の戦う力は、軍事力のそれではなく、ひたすら神の恵みと庇護から来るものであった。古代オリエントの覇者たちの軍事力とは比べるべくもないが、それでも聖書の民がそのはざまで生き残り、独立を保てたのは、ひたすら神の恵みであった。ところが民は、、見えない神に頼ることに不確かさと不安を覚え、我とわが身の力に頼ったのである。その結果「マゴグのゴグ」のようなバビロニアによって、壊滅させられたのである。それは即ち、神の恵みから引きはがされた出来事であり、民は自分たちに対して、神が顔を隠されたのだと考えたのである。

これまでただ神の恵みのみによって歩んで来た人々が、「もはや神は我々を忘れ、御顔を隠され、捨てられた」という思いになる時こそが、最大の危機である。カナンの土地も、神が約束された「乳と蜜の流れる地」であって、ひとえに神の恵みの賜物なのである。その恵みから離れれば、ユダの人々はもはや神の民ではなく、どこにも何にもかかわりのない、無縁な者となるのである。つまり彼らのアイデンティティは、ただ神ヤーウェにあるのだから、それを失えば、ちりじりばらばらに離散し、民として消滅するしか道はないのである。

エゼキエルはこの危機の恐るべきことを、何よりも自覚しており、その危機を乗り越えるために捕囚民に懇ろに語りかけ、励ましを与えたのである。大帝国バビロニアを前にして、全くたじろいでしまい、バビロンに同化してしまおうとする誘惑を跳ね返すのは容易ではなかったろう。しかし、「黙示」という表現によって、人々の心の深層に、ヤーウェの働きのヴィジョンを刻印し、それによって希望を注入しようとするエゼキエルの試みは、半世紀余りの後に開花するのである。しかし、この「捕囚」という「神が顔を隠される」という悲惨な体験を通して、「イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる」(22節)というのである

なぜなら、「マゴグのゴグ」のように、今、全世界をほしいままにしているようなバビロニア大帝国でさえ、神ヤーウェの御手が下される時、「お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も。イスラエルの山の上で倒れる。わたしはお前をあらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食として与える。お前は野の上に倒れる」(4節)のである。伝説の「マゴグのゴグ」もまた、イスラエルの丘の上に倒れるのである。エルサレム神殿は再建され、ユダの人々は、祖国に帰還するであろう。

数年前、あるグループ・ホームで暮らすお年寄りのご家族から、相談を受けた。そのお年寄りは、娘時代をある都内のミッション・スクルールで過ごし、在学中に洗礼を受けたいと強く願ったそうだが、諸事情でその希望がかなえられなかった。そして卒業以来、受洗の機会が与えられず、老齢を迎えたという。そして今、自分の人生の終わりを感じたこの時に、再び、若い時の希望を強く抱くようになったということであった。

教会に来るのは無理な体調であったから、とある聖日の夕べに、ホームの居室で洗礼式を執り行うことになったのである。私がその方の枕辺に行くと、手をついて自分の力でベットから起き上がられたので、ご家族もいたく驚く様子であった。この洗礼式の後、数カ月ほどして天、姉妹は天に帰られたのである。やはり、この世の旅路の終わりに臨んで、人はこの後どこに歩むべきか、どこに帰る場所があるのかを真剣に自ら問うのである。

「うさぎおいしかのやま、こぶなつりしかのかわ」は、現実の地理的場所として故郷であるというよりは、自分の魂の帰るべき場所、この世の旅路を終えて、赴くべきところを象徴的に示唆しているのだろう。それがはっきりしなければ、人間は魂の落ち着きや安らぎを見出せないということだろう。「人間はあなたに向けて創られたがゆえに、あなたの下に行くまでは平安を得ません」(アウグスティヌス)と古の牧者が語る通りである。