「死ななければ命を」コリントの信徒への手紙一15章35〜52節

「ネガティブ」という英語がある。普通、あまりいい意味で使われないことが多い。ネガティブな性格、とかネガティブな印象とか、「否定的、後ろ向き」というようなニュアンスである。しいて良い意味で使われるのは、コロナ感染の有無を調べるPCR検査で、ネガティブとは「陰性」を意味し、感染していないことを意味する。

しかし、あまりいい意味で用いられることが少ない「ネガティブ」を、積極的に位置づけた人がいる。19世紀初頭、英国の詩人、また医師でもあったジョン・キーツは、「ネガティブ・ケイパビリティ」という用語によって、不確実なものや未解決のものを受容する能力について語ったのである。日本語訳は定まっておらず、「消極的能力」「消極的受容力」「否定的能力」等いくつかの訳語が存在するようである。キーツは、1817年12月21日付の弟宛の手紙で、この考え方を表明している。「私はディルクにさまざまなテーマで論争ではないが長い説明をした。私の心の中で数多くのことがぴたりと符合しハッとした。特に文学において、人に偉業を成し遂げしむるもの、シェイクスピアが桁外れに有していたもの――それがネガティブ・ケイパビリティ、短気に事実や理由を求めることなく、不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に人が留まることが出来る時に見出されるものである」。

小説家で精神科医でもある帚木蓬生氏によれば、悩める現代人に最も必要と考えるのは「共感する」ことであり、この共感が成熟する過程で伴走し、容易に答えの出ない事態に耐えうる能力がネガティブ・ケイパビリティだと語る。「精神科医になって数年後の1985年ごろ。すべて分からないといけないと思っていた私は、無力感にさいなまれ始めたんです。全力で治療をしても治らない患者さんはいるし、治癒したはずの患者さんが、戻ってくることもあった。その際に論文を読んでいて、ネガティブ・ケイパビリティという概念を知りました。それから臨床が随分、楽になりました。効果が出なくても、踏みとどまり、見届けられるようになりましたから」。

今日はコリント前書15章の後半部分から話をする。この書簡は、コリント教会から質問されたことに、一つひとつ答えていくという書き方がされている。まだ生まれたばかりの教会で、「キリスト教」という名称も定着しておらず、教会の組織や仕組みも整っておらず、ましてや信仰についての標準的な理解を定める教理や教義も、まだまとまっていない時代である。信仰告白もまた、断片的な文言がキリスト者たちに共有されていたという程度である。だから教会に集められた人々が、互いに話し合い、議論しつつ、これからの教会の方向性を定めて行かなくてはならない訳だが、時に議論が紛糾し、一致や調和が保てなくなることも、あったのだろう。手紙の冒頭部分では、いくつかのグループに分かれて、派閥争いが繰り広げられていることも、言及されている。

そして手紙の末尾に近い15章では、もっともデリケートな問題が議論されているのである。即ち「復活」を巡っての事柄である。教会の最初期には、キリスト者の復活はあまり問題にはならなかった。自分たちが生きている内に、直ぐにも世の終わり、終末が訪れる、と信じられたからである。ところが時は過ぎ、中々終末は訪れず、神の忍耐による憐みが語られるようになると、「復活」を巡る議論が生じてきたのである。教会の信者の中にも、亡くなる者が大勢出て来たのである。しかし議論の難しさは、死んだ後のこと、という事柄自体にある。

12節以下に、教会の中に「死者の復活などない」と言っている輩がいる、とパウロは伝えている。ただこの主張にしても、現代の科学的知識からの判断によるものではないことに留意したい。もうすでに、神の霊につながって生きているのだから、永遠の生命にあづかっている自分たちは、身体の復活などどうでもいい、もう自分たちの魂は、復活のいのちに生きている、と主張しているのである。現代人のように、死者が生き返ることなど、非科学的でナンセンスだと言っているのではない。

今生きている人間にとって、死んだ後のことは、誰にも分からないわけで、だからこそ想像力を働かせれば、何とでもイメージすることはできる。巧みな想像力を働かせ、いろいろなヴィジョンを描き出せることは、この世を楽しく、生き生きと生きるためのスキルにもなるであろう。芸術家は、そのような資質に、特別に豊かに恵まれた人々だと言える。しかし、人間は分からないことを、そのまま宙ぶらりんにしておくことが、得てして苦手であるから、自分であれこれとイマジネーション(想像)の翼を広げられない人は、どうしてもその道のプロと目される人に、尋ねたくなるものである。

「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」このようにパウロに尋ねて来たのだろう。皆さんなら、これにどう答えるだろうか。そしてこの難問、「死者の復活」について、パウロはどのように答えているだろうか。42節以下「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。皆さんはこの使徒パウロの言葉を呼んで、「復活」について、具体的、現実的なイメージを思い描くことができるだろうか。さらに51節以下「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。この言葉はどうだろう。はっきり言えば、パウロもまた答えることができないのである。なぜなら、「復活」とはひとえに「神のみ」のみわざであって、人間がどうにかできる類の事柄ではないからである。

初代教会の最も早い時代に告白された信仰の言葉は、「イエスは復活された」であった。しかしこの信仰告白は正確には、「主イエスは(神によって)復活させられた」という受身形の文章で、神が主語なのである。十字架の最期において、主イエスは痛ましくも無残に、茨の冠をかぶせられ、手足を釘づけにされ、血を流して息を引き取られた。その救いようのない十字架の悲惨の裏側で、目には見えないが、しっかりと働かれる神のみわざがある。それこそが「復活」である。十字架を通して、神は復活の出来事を明らかにされる。だからそこに立って、パウロは語っているのである「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」つまり、「死者の復活」について、これに対するまっとうな答えは、ひとつしかないだろう。「分からない、しかし、後ではっきりと分かるだろう」。私たちに必要なのは、キーツの言う如く「ネガティブ・ケイパビリティ」、短気に事実や理由を求めることなく、不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に人が留まることである。

アンパンマンの作者やなせたかし氏(1919~2013年)に「ひとつぶの水滴」という詩がある。「雲の中で/ひとつぶの水滴が生まれた/地上めがけて/落ちていった/無数の水滴はあつまって川になり/海へ流れていった/ぼくは何かの役にたったのだろうか/ひとつぶの水滴は/そうおもった/ひとつぶの水滴がなければ/川もなければ海もない/地球は完全に乾いてしまう」。

この世界の中で、「ひとつぶの水滴」など、問題にもならないほど、小さなものである。しかし、そのひとつぶひとつぶの水滴の集まりがなければ、大きな川もないし海もできない。ましてやひとつぶの水滴がなければ、地球上のすべての生命は、生きられないのである。その水滴が巡り巡って、生命は支えられている。神の造られた生命は、そのようにして合い働いているのである。「復活」とは、そのような神の大きな生命の働きの中に、私もまた結ばれ、つなげられているということである。神の生命の働きに結ばれているなら、小さな生命は空しく費えることはない。