長谷川町子作『サザエさん』の漫画の一コマにこういう場面があった。ワカメちゃんがまだ病気が治っていない友人と一緒にいる。サザエさんは叱る『風邪が感染するから遊んじゃ駄目よ』、それでも『遊びたい!』『離れて遊べるものならそうして見なさい!』、するとワカメちゃんはどんな手を使うか。「糸電話」で病気の友達と遊ぶのである。子どもは必ずどこかに抜け道を探し出す。現在なら、「携帯」でやすやすとコミュニケーションが取れる。
「心を傾けて聴く。簡単そうで難しい。会話は言葉のキャッチボールだから、相談を受けた時はつい、何らかの答えを助言しようとしてしまう。でも、誰かに相談する時、必ずしも答えを求めているわけではないだろう。話を聞いてもらうことで心の中を整理できる。すると、答えはもう自分の中に出ていることに気づいたりする。なのに自分の考えを伝えたり助言したり、話が途切れた時は何か話題を探そうとしたりする。そうではなく、じっと相手の言葉を待ち、『心の声』に耳を澄ます。独居の高齢者が増える中、傾聴ボランティアはお年寄りを支える重要な活動だ。対面でも傾聴は難しいのに、相手の顔が見えないとさらに難度が増す」(7月12日付「有明抄」)。
ここ数年、まだ終わった訳ではないが、私たちは、今まで当たり前のことであったことが、当たり前にできなくなった、という経験をしてきた、と言えるだろう。その一つが「対面」、顔と顔とを合わせて。まずその姿勢をとることが、人間関係のイロハというものだろうが、その「対面」がかなわなくなった、のである。しかも、「対面」でなければ意味がない、と言える状況でそれができないとなれば、ことは深刻である。先ほどの文章は、電話での「傾聴ボランティア」についての一文だが、「じっと相手の言葉を待ち、『心の声』に耳を澄ます。対面でも傾聴は難しいのに、相手の顔が見えないとさらに難度が増す」という指摘は、身につまされる。
フィリピの教会は、パウロが特に「親愛の情」の深かった教会である。そのことは1節にストレートに記されている。「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」。このようないささか大げさな呼びかけは、他の手紙には見られない最大級の賛辞である。体は離れていても、心をしっかりと結ぼうという姿勢が、リアルに伝わってくる。手紙のこうした文面を味わうにつけ、使徒パウロ自身の抱えていた事情で、いかに彼がもどかしい思いをしていたかが、読み取れるだろう。彼は今獄中にあり、「顔と顔とを合わせて」、フィリピの教会の人々と「対面」することができないでいる。
ここで使徒は懐かしい教会の懐かしい人々への尽くしがたい「親愛の情」を吐露している。とはいうものの、関係や間柄に何の問題もなく、なめらかで、順調で、思い通りに行っているから豊かに湧き出る、というものでもないだろう。そういうことなら「親愛」なんてものは、そもそも人と人との間には生まれてこない。人間のいるところは、ことごとく問題だらけであり、そういう問題を共に負い苦労し合うところで、まことの「親愛」というものが育まれると言えるのかもしれない。身近な家族への「親愛」を思い起こしてほしい。「こちらの思い通り」等と考えていたら、破綻しかありえないだろう。それでも「共に」なのである。
そして今日の聖書の箇所に、2人の女性の名前が記されている。エボディアとは「成功」、シンティケとは「幸運」という意味で、どちらも縁起の良い名である。おそらく名は体を表しているのだろう。もしかしたら、教会でこの二人はこうした「通名」で呼ばれていたのかもしれない。かつて「栄ちゃんと呼ばれたい」と漏らした総理大臣が居たらしいが、親しみを込めて、愛称をもって呼ばれるというのは、確かにそういう人柄を証ししていることなのであろう。
この二人は、「クレメンス、(おそらく教会の庇護者、家の教会の提供者)、他の協力者と力を合わせて、福音のためにわたし(パウロ)と共に戦った」と記される。「力を合わせ、共に」、これだけでもこの二人の女性に対して、最大級の称賛をパウロは送っていることが分かる。教会での働き、「良いわざ、愛のわざ」は、余分なものを除ければ、これに尽きるであろう。教会は何をしたか、何ができたかで評価される所ではない。「力を合わせ、共に」がすべてである。私の恩師がかねがね語っていたことは、「その人と一緒に働いてみるまでは、分からない」ということである。学歴や職歴、生まれ育ち、人間を表すものは色々あるだろう、しかし共に働いてみることで、その人の本当が知れる。確かに、働くことは、準備と後始末、それがほとんどすべてと言ってよい。すごくいい思いつき出来る人でも、「後片付け」がまったくできない人も居る、それがいいとか悪いとかではなく、共に働くことでそれが初めてわかるのである。
極めつけは、この二人の女性は「命の書に名前を記されている」のだという。どれだけ教会に熱心であったか、彼女らの存在が大きかったかを物語る評価である。古代には「神は救われるべき人間の名を記した、いわばライフ・ノートを携えている」、という神話的な発想があった。世の権力者は己の業績を後世に残すべく、「記録(歴史)」を側近に整えさせるのが常である。神もまたそのように「記録」を用意されている。神の務めは、「救い」のみわざを行なうことである。その救いのご計画が記される書を持たれるのである。それは神以外にのぞき見することは許されない秘密のノートなのだが、きっとそこには彼女たちの名が記されているはずだ、とパウロは聊か大げさとも言える喩えで強調する。
そういう二人の女性、エボディアとシンティケ、彼女たちはこう評されている。「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の同労者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれた」。「福音のために、共に戦った」、福音のために、共にという言葉は真実であろう。人のために、誰かのために、というと何がしか偽善的な匂いを感じるが、「福音のために」とは、言葉を換えれば「喜びのために」ということで、伝える私たち自身がまず喜びに満たされる、ということである。自分がまず喜んで、その喜びが相手に伝わることを願いながら働く、ということで、喜びを中心に、人の輪が広がる、ということでもある。人のため、善のため、というだけでは、人は一つにはなれないかもしれない。しかし「お祭り」が典型のように、喜びのためには、人はひとつになれるのである。ここでは具体的にフィリピ教会の設立のことを指しているのだと思われる。
ところがそういう二人、喜びのために力を合わせるふたりが、どう語られているか。わたしはここに原始教会の生の息吹を聞くのである。「主において同じ思いを抱きなさい」。この言葉が示しているものは何か。それは二人が「仲たがいをしている」ということである。しかも遠くにいるパウロの下にまで情報が寄せられるところを見ると、絶交と言っていいくらい修復不可能、酷い状態にあることが想像される。この事実を、福音で協力しても、人間は仲たがいをする、と捉えるか、仲たがいしても、福音のためなら協力し合えると捉えるか、どちらであろうか。
これを訴えられたパウロの答え方は、実に牧会上興味深いものがある。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」。わざわざ同じ言葉を二度繰り返し、二人まとめてではなく、ひとり一人にそれぞれ向かい合って、ねんごろに語ろうというのである。否、「勧める」とは原文では「パラクレオー」、「勧める」ではなくて、「呼びかける」、原初的意味は「一緒にいて、主に歩む」、つまり一方通行の言いっぱなしの訓戒などではなく、まず相手に対して「聴こう」、「傾聴」したいと呼びかける。何かああしなさい、こうしなさい、こうした方がいい、というのではない。「主イエスに、あなたの思いを、集中して、共に聞こう」と促すのである。つまり「見えない主イエス、しかしわたしの霊と共にいて下さる主イエスに、あなたの思いを集中させ、聞いていただきなさい」と語るのである。「仲間じゃないか、相手のことをもっと思いやって」、と諫めるのならば、また腹も立つだろう。そうではなく、ただ「キリストひとり」に向かいなさい、あの「十字架で苦しまれた方に」いうのである。「私もまた主に向き合うから」。
さらに、「くびきを同じにする者よ」、彼女たちに密につながっている人たち、つまり教会の仲間に、もちろんひとり一人、人間と人間との関係で、同じように悩み苦しんだことがあろう、そうした教会の人たちにパウロは呼びかける。「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください」。彼女たちが仲直りできるように働きかける、というのではなく、主イエスの方に心が向くように、ただキリストについて二人が思いを深められるように、支えなさいというのである。何か言ったり、誡めたり、おためごかしをするのでなく、ただキリストだけに向き合えるように、配慮しなさい、ここに終始するのが教会である。教会はただひたすらキリストを示すところ、もしキリストを指し示すことが出来ないなら、もはや教会ではない。
「すべての/くるしみのこんげんは/むじょうけんに むせいげんに/ひとをゆるすという/そのいちねんがきえうせたことだ」。八木重吉の信仰詩である。この感性あふれる詩人も、みずから「赦し」について深く思いめぐらし、人を赦せないことで煩悶したのであろう。人間の苦しみの最も根元にあるものは、「赦せない」「赦されない」という思いだ、というのである。そういう赦せない私たちが、向き合うことができるのは、あの十字架の道を歩まれた主イエスだけではないか。そのイエスのみ言葉、十字架に釘付けにする人々を目の前に、「彼らをお赦しください、彼らは自分が何をしているのか分からないのです」、に行くしかないではないか。
教会の人間と人間のつながりは、キリスト抜きには成り立たない。目の前の人が憎いなら、その人の前に、十字架につけられたキリストが立っておられることを知る必要がある。キリストが死んだのは、私たちが憎む人のためではないか。エボディアまたシンティケは、私たち自身の姿である。「主にあって、あなたの思いを、キリストひとつに集中して」そこに行くしかないだろう。