祈祷会・聖書の学び ダニエル書5章1~12節

「天災は忘れた頃にやって来る」、科学者であった寺田寅彦氏の警句とされる。この言葉のように、彼は防災についての文章も、多く記していることで知られる。1933年公刊の『津浪と人間』では、「津波は定期的に起きるものでそのことは十年も二十年も前から警告している」という学者の主張と、「二十年も前の事など覚えていられない」という被害者の主張の双方を取り上げ、「これらはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の『現象』なのである」と論じている。さらに、「こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は、人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう」と諭すのである。

しばしば人間には、「これくらいなら大丈夫だろう」という勝手な思い込み、いわゆる「正常性バイアス」が働くことが指摘されている。寺田氏の見抜く通り、大災害の発生周期は、人間の感覚からすれば、「憶えていられない」ほどの「時間」であるのだが、だからといって「ない」わけではなく、それは必ず「起こる」のである。だから大災害が起こるその時に、生命を救うために、どういった手が打てるのかが、重要な課題となるであろう。

先ごろある大学が、小型無人機(ドローン)を使って、空中に映像を映し出す画期的なシステムを開発したという。「レーザー空中サインシステム」と名付けられたその装置は、自由に移動が可能で、レーザー光によって、昼でも夜でも、遠くからでも、多くの人からも見ることができ、費用も比較的安い、というメリットがあるとのことである。「声」や「音」によって、危険を知らせるという方法は、従来も行われているが、やはり「見えるもの」に勝るメディアはないということだろうか。虚空に輝く文字情報が投影される、というのは、やはり人間へのインパクトも大きいであろう。

今日の聖書個所は、ダニエル書の中で、最も有名な逸話であろう。南王国ユダを滅亡に追いやり、エルサレムの主だった人々をバビロンに連行し、捕囚にした大帝国バビロニアの王、ベルシャツァル(ネブカドネツァルの孫)は、自分の臣下である多くの貴族を招いて大宴会を開き、珍味佳肴で酒を飲んでいた。宴もたけなわに、一座の余興として、父王がエルサレム神殿から奪ってきた祭具である金銀の器を取り出させ、王や貴族、女たちはそれで酒を飲みながら、金銀銅鉄木石などの偶像を讃え始めたという。

するとそこに光り輝く指が現われ、大宴会場の虚空に謎めいた文字が書き記されたのだという。想像力を否が応でも掻き立てる道具立てである。巨大な白壁を背景にして、不気味な手指だけが蠢き、謎の文字が記されていく。文字を描くことは、「書記」という特別に訓練された限られた技術を持つ人だけにできることで、さらに古代の人は、文字に魔力のような神秘の力を認めていたから、一同の驚きはいや増したであろう。文字自体に生命があって、それはじっとしておらず、動き回り、「ことば」の大きな霊力が発散されるのである。

「虚空に映し出された文字」というと、前述した「レーザー空中サインシステム」のようだ、と思えなくもないが、幻燈や映画など、遥か未来の話の古代という時代にあっても、プラトンがその著作の中で「洞窟の比喩」を語っているように、夜の宴会で、今の時代からすれば、ほの暗い明るさだったろうが、強い照明を用いた何らかのパフォーマンスが行われたのではないか、とも想像されるのである。少なくとも、現代人の発想と同じようなアイデアを思い描くことがあったと言えるのではないか。ここで神は現代メディアの先取りをしている、と言えなくもない。

虚空に描き出された文字、25節「メネ メネ テケル ウ(そして)パルシン」。まるで推理小説のようだ。謎のメッセージをめぐって、ミステリが展開されるという作品も多いが、この言葉を、何度か声に出して、繰り返し読んでみるといい。たとえ聖書の言語をまったく知らなくても、この言葉の持つ音の響きには、何かしら心に不思議な印象を与えられる。まずリズムがある、そして音が耳に残る、そして呪文のように、この言葉が頭から離れなくなる。そういう文言が、「謎」を形成する。そしてその「謎」を解く名探偵、ダニエルが登場する。いかにも大衆の喜びそうな演出である。

この言葉を唱えていると、いろいろに想像の翼が拡がって楽しい。もしかしたら子どものざれ歌が元かもしれない。市場での商取引の際の、掛け声をまねて遊ぶ、子ども達の様子が目に浮かんでくる。「ままごと」に代表されるように、子どもの遊びは大人のやっていることの「模倣」である場合が多い。なぜ商取引なのか、「メネ」とは「数える」という意味であり、「テケル」は「量る」、そして「パルシン」は「半分(半額)」という意味である。いかにも市場の商人たちが、威勢の良い掛け声を上げて客を呼び込み、景気をつけて売りつけようとする雰囲気が、漂っているではないか。「どんだけでも売るよ、数えるよ、量るよ、よその半額でどうだい!さあ買った買った」という具合である。

名探偵ダニエルは、この謎を見事に解いて、バビロニア王に告知する、まるで「真実はいつもひとつ」と言わんばかりに。25節以下「さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」大バビロン滅亡の預言である。

「神は沈黙され、もはや我々には何も語られない」、捕囚のさなかにあって、聖書の民を苦しめたのは、そういう思いであったろう。そうした神の言葉の喪失という絶望の中で、人々は、かつて語られた神の言葉の伝承を蒐集し、それを文字に記し、さらに将来の神のみわざに心を向けたのである。神は虚空の中にも、みことばを記される。これは私たちにとっても同じ体験であろう。十字架によって神のみ子は、痛ましくも血を流し死んで行かれたのである。その絶望の出来事、空虚な人間の営みの只中に、神は救いのみ言葉を語られるのである。滅亡の預言は、復活をも示唆するのである。