祈祷会・聖書の学び ダニエル書2章13~24節

皆さんは、子どもの頃に友達と「怪談話」をして、楽しんだ(怖がった)憶えはあるだろうか。とりわけ「学校」にまつわる怖い話が、しばしば話題になったのではないか。昔の学校は、古い木造の校舎が多く、大方は暗くて大きく、人気がなくなれば不気味は雰囲気を醸し出していたものである。

某放送局人気のクイズ形式バラエティ番組が、『学校の怪談がどの学校にもあるのはなぜ?』という質問をしていた。かつての古い木造校舎から新しい鉄筋の近代的建物に建て替えられても、「学校の怪談」は語り続けられている。もはやおどろおどろしい雰囲気ではないのに、今もなお、学校にまつわる不気味は話を、児童たちは語り続けているのか。もちろん昔語られていたストーリー通りではなく、だいぶ異なる要素が混在しているのであるが、「怖い話」であることは共通である。

番組の答えは、「友だちと仲良くなれるから」。どうしてそうなのかと言えば、「トイレの花子さん、人体模型、音楽室の肖像画」のような学校の怪談はどの学校にも大抵は存在しているものだが、これは「友だち作りに役立つコミュニケーションツールとしての役割」が存在しているというのである。なぜなら学校の怪談には、「恐怖と同時に快感を感じる」、「怖いけど安心」、「秘密の共有」の3つの要素があり、これこそが語り続けられている理由なのだという。

現代のように「物語」が商業ベース上で機能する以前には、それは「学校の怪談」のように「快楽(娯楽)」「安心」「共有」を共同体成員に付与する働きを為していたと考えることができるであろう。同じ自己同一性を持つと見なされる者たちは、同じ物語(文学)を共有する共同体として位置づけられるのである。

聖書の民、古代イスラエル人たちも、同じ物語を共有する人々であった。但し、最初から私たちの呼ぶところの旧約聖書という膨大な文学を有していたのではない。最初は「出エジプト」「荒れ野の放浪」「土地取得」にまつわる比較的短い「伝承」を共有する間柄で、それが核になり接着剤になって、ひとつの共同体が育まれて行ったと見なすことができるだろう。徐々に共有の物語には、新しいストーリーが付加されて、次第に現在のような多様で浩翰な文学を成立するに至ったと説明することが出来ようか。それはキリスト教の物語、即ち「新約聖書」も同様のプロセスをたどって成立したと言える。

旧約聖書がいつ、どのように成立したかについては、さまざまに複雑な変遷や動きが背景にあるが、「バビロン捕囚」がその大きな契機になったことは確かであるだろう。ユダ王国の人々は、祖国を失い、アイデンティティの象徴でもあったエルサレム神殿がまったく崩壊し、住むべき場所を奪われ、見えるものをすべて喪失したのである。そして異郷の地バビロンで生活することを余儀なくさせられる。するとそれまで共同体の紐帯となっていた伝統や慣習、とりわけ信仰が瓦解し、巨大都市バビロンに、自分たちの共同体が飲み込まれて行く危機に直面したのである。この危機を前にして、イスラエルの民は、古から伝承されて来た膨大な物語を文字に書き記し、これを見に見える王国の代わりに、共同体の中心に置いて、民族としての崩壊に抵抗しようとしたと思われる。

ダニエル書は、現在のような構成となったのは、紀元前2世紀のマカベア時代であると見なされるが、6章までの賢者ダニエルにまつわる物語は、それよりも古い時代に遡ると考えられている。今日の個所では、バビロニアのネブカドネツァル王の無理難題、夢の解き明かしを、ダニエルがその卓越した知恵をもって、見事解決するというストーリーであるが、この根本には、バビロニアに埋没すまい、という抵抗のこころが豊かに表明されているだろう。

今日の個所は、ネブカドネツァルがある夢を見るのだが、その夢を思い出せないので、気になっていらいらするという場面から始まる。確かに夢というものは、目覚めた時には、その内容を忘れてしまうことがよくある。とりわけ古代では、「夢」は神意を示す、神の使いからのお告げだという観念があったから、現代よりもその内容が指し示すところが気になったであろう。ところがこの王のわがままも、並大抵ではない。霊能力を自負する者ならば、内容を聞かずとも、夢の意味するところはわかろうというもの、と豪語する。大体、他人の頭の中の脳みそで生じる「夢」、しかも忘れてしまった「夢」を、内容をしらないままに説き明かせとは、無理難題である。それも解き明かせなければ極刑の上、家財一切没収というのだからたまったものではない。12節「王は激しく怒り、憤慨し、バビロンの知者を皆殺しにするよう命令した。知者を処刑する定めが出されたので、人々はダニエルとその同僚をも殺そうとして探した。バビロンの知者を殺そうと出て来た侍従長アルヨクにダニエルは思慮深く賢明に応対し」たという。

賢者、先見者、預言者らは、古代オリエントの王宮のブレーンであるが、正に命がけである。そして賢者のひとりと目されていたダニエルの身の上にも、危機が迫った。バビロン中の知者を殺そうとしてやって来た侍従長、アリヨクに向かい合わざるを得なくなる。ダニエルは、この王の奇問難問を、自分独りだけで抱え込むことをせず、仲間と分かち合ったのである。優秀で仕事のできる人間は、とかく一人で頑張ろうとする。ところが世の中は、満点をとって当たり前の場所なのである。きっちり仕事をして、結果を出して当たり前なのである。そんな非情の場所で、つねにひとりで満点を取ろうとしたら、どんな優秀な輩でも、おそらく程なく、力尽き燃え尽きしまうであろう。ダニエルは、仲間4人で対処の方法を思案するのである。「三人寄れば文殊の知恵」と言われるが、四人ではまさに神の知恵である。

彼らの取った方策の眼目は何か。17節「天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った」というのである。「共に祈る」という信仰共同体において基本の基とも言うべき姿勢を、ダニエルたちはまず示したというのである。信仰共同体の崩壊は、共に祈り、アーメンを共に口にできるかどうかにかかっているだろう。どれほど激しい議論がなされ、どれ程多様な意見が戦わされようとも、その議論の終わりには、皆が共に祈り、そしてその祈りにアーメンで応えることができるなら、共同体(教会)はひとつに守られるのである。