「確かに、伝えました」マタイによる福音書28章1~10節

祝イースター。昨年は、一同が礼拝堂に会することができず、それぞれのご家庭でお祝いいただいたが、今年は、未だコロナ禍の先行きの見えない中ではあるが、皆で共にイースター礼拝を守ることの出来る恵みを思う。先行きが見えない中にも、神は働かれておられ、人間の知らない所で、復活の命が芽生えることを、改めて心に深く思いたい。

イースターの時季は春である。春、スプリングは、古い英語で「突然動く」を意味する「スプリガン」が由来で、「光が見え始める」との意味もある。日本の「春」の語源は発や張、墾(畑をはる)など諸説あるが、どれも動きを感じさせる字である(倉嶋厚「季節の366日話題事典」東京堂出版)。イースターは、止まっていたものが、動き始めることでもあるだろう。

昨年、ニューヨーク・タイムズ紙に、次のような記事が掲載された。ロックダウンでどこにも行けず気持ちはすさむが、失業して時間だけはある状況の中、アメリカでひよこの売り上げが急に伸びている。これも新型コロナウイルスの感染が拡大する中で起きたパニック買いの一例らしい。イースター(復活祭)と言えば、卵と並んでひよこがつきもの。だから毎年、イースター前の時期になるとふ卵場は大忙しで大量のひよこを出荷する。そんな時期であるにもかかわらず、今年は入手困難になりつつある「トイレットペーパーに買い物客が殺到したのと同じように、ひよこのパニック買いが起きている」。記事によれば、ひよこは株価が下落したり、大統領選の年といった、先が見えない時期によく売れる傾向があるという。

小さいが、ぴょこぴょこ活発に動く「ひよこ」によって、復活の生命にふれる、成程とは思うが、昨年、大勢の人々に買われたひよこは、その後どうなったのか。まだ先行きの見通せない中、今年はどんなものが売れるのであろうか。

さて今朝は、マタイによる福音書の復活の物語から話をする。復活の出来事とは何か、こう語り出される。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」。ユダヤ教の礼拝が守られる日は、神の安息にあずかる日、週の終わりの日、土曜日である。他方、キリスト者たちは、礼拝をその次の日、日曜日に守った。それは、その日に主イエスが復活されたというこの一事による。ユダヤ教では、土曜日は安息日、つまり休みの日、いかなる労働もしてはならない日である。その日に礼拝を守る、これは実にふさわしいことであろう。ところが日曜日は、素より休日ではない、週の初めの日は、休み明けの仕事の日なのである。休み明けには、大抵、新たな仕事が溜まっている。それを処理すべく腰を上げねばならない重要な日なのである。勤め人ならば、自分のボス、パトロンの所に顔を出してご機嫌を窺い、主人が何を求めているのかを察知して、いち早く行動を起こさねばならない。だからこの日に礼拝を守る、というのは、実に大きく制約やバイアスがかかるのである。この国では、日曜日でも、仕事の為休めないので、礼拝もままならないという声を聴くことがあるが、古代でも日曜日に礼拝を守ることに困難さが、付き纏っていたのである。

それでもキリスト者は、日曜日の朝に礼拝を守ることを止めなかった。明け方の前、まだ朝暗い内に教会に集まり、礼拝を守り、それから仕事に出かける者も多かったであろう。前日の夕方から礼拝が開始され、翌朝まで続くことも多かったから、徹夜することも度々だったであろう。なぜそれ程日曜日に拘ったのか、それはキリスト者にとって、主の復活の出来事、これを記念し、その出来事にあずかることが、何にもまして重要だったからである。もし復活の出来事がリアルでなかったなら、そこまで社会的な困難や無理解を押してまで、固執しなかったろう。初代教会の人々にとって、復活とはそれ程リアルな出来事だったのである。

しかし復活の出来事は、「週の初めの日の明け方」より前の、まだ暗い内に起ったのである。つまり「暗い内」とは、誰も気づかない内に、ということで、マタイによれば主を葬った墓は、番兵たちが見張りをしていたというのである。その番兵たちも気づかなかった。大きな地震が起こり、墓の蓋石が転がるほどだった、と伝えられるが、もうすでにその時には、主イエスは墓に横たわってはおらず、既に復活していたというのである。

墓を見張っていた番兵でさえも、知らなかったとは、誰も気づかない、誰にも分からない、見えない中に、即ち、見通しのきかない、先行きの見えない中に、復活の出来事は生じたとマタイは主張しているのである。復活は「見えない中に起る」というマタイのメッセージを皆さんはどう聞くだろうか。

詩人の杉山平一氏の詩に「曲折」という作品がある。「列車が大カーブにさしかかると/窓の外に先頭が見えてくる/まっすぐに走っているときは/見えなかった 自分だ」。もうひとつ「進歩」という作品、「人は同時に両側を見ることはできない/右なら右の 片側の景色ばかり見ているので/車がいつのまにか同じ道を 帰っているのに/行きと反対側の景色に接して/前へ 前へ進んでいると 思い込んでいるのだ/生涯の道に於いてもまた」。

この詩人は、乗り物が好きだったのか。車や鉄道を題材にした作品が多い。普段、何もない時には、一番前、先にあるものは見えない。曲道で初めてそれが見えて来るのだというのである。さらに人間は、必ず物事の一面しか見ていない。本当は後戻りしているのに、先に進んでいると思い込んでいる。「生涯の道に於いても また」と説くのである。

「見えない内に、気づかない内に」とはまさに神が起こされる出来事の、内実を表すものであろう。主イエスの復活は、女たちが、主の復活の、そのお姿を見た、という以前に、天使の告げる言葉によって知るのである。5節「恐れることはない。十字架に付けられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」。彼女たちは、見たから、信じたのではない。

天使たちは女たちに命じる。「あの方は死者の中から復活された。そしてあなた方より先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる」、この言葉を聞いて、女たちは急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために、走って行った、という。ここで興味深いのは、「恐れながらも大いに喜び」、とその心の内が語られていることである。神のなさるわざを知る者は、人間の思ってもみない事柄に出会い、恐れと喜びの中で生かされる。そして墓の中で、つまり死の世界で立ち往生していた者が、み言葉に従って、動き出す、走り出す、ことができる。ここに復活の命の姿がある。

杉山平一『希望』「夕ぐれはしずかに/おそってくるのに/不幸や悲しみの/事件は/列車や電車の/トンネルのように/とつぜん不意に/自分たちを/闇のなかに放り込んでしまうが/我慢していればよいのだ/一点/小さな銀貨のような光が/みるみるぐんぐん/拡がって迎えにくる筈だ/負けるな」。

復活の主との出会いも、この詩のようであるだろう。まさにスプリングの季節である。