受難週祈祷会・聖書の学び イザヤ書63章1~10節

古代の人々にとって、一年の内で最も喜びの時とは、やはり「収穫」の時だったであろう。豊かに作物が実る、ということは、次の一年の生活が、担保されることであり、安心、の基を与えられることでもあった。聖書の世界は、ぶどうの原産地のすぐ近所であり、一年の「収穫の恵み」の中で、最も大いなるものはやはり、その実りであったろう。果実は口に甘く、瑞々しく喉を潤してくれる。さらに乾燥させて、干しぶどうとして保存すれば、いつでもその滋味を味わうことができた。そればかりか発酵させれば、心地よく身体と神経を温め、安んじるぶどう酒となったのである。

ぶどう酒の原産地は、イランともジョージアとも言われるが、紀元前8000年頃には、既に盛んに生産されていたらしい。保存用の瓶などが発掘されている。「喜び」の時には、それにふさわしい祝い方がある。村人が広場に集まり、そこに置かれた酒ぶねに摘みたての完熟果実が投げ込まれ、ぶどうの実を足で踏んで、ジュースを絞る,ぶどう酒作りの始めを村人総出で祝ったことであろう。そこでは皆が歌を歌いながら、踊りながら、それに合わせて、ぶどう踏みが行われたことだろう。調子よく踏むことで、うまい具合にジュースがまんべんなく絞り出される。美味しい酒ができるように、皆が祈りつつ、祭りが盛大に祝われたことだろう。

この国のワイナリーでも、昔を偲んで、「ぶどう踏み体験」をさせてくれるところがあるようだ。但し「足で踏んで不衛生ではないですか」という質問が寄せられることがあるそうだ。そもそも素足で踏むからこそ、酵母が上手い具合に働くのであるが。

今日の聖書の個所は、受難週に必ず読まれるテキストのひとつであるが、主イエスの受難の預言するものとして理解されて来た。しかし、ここで語られる光景は、大いなる神の恵みに感謝する「祝祭」としての「ぶどう踏み」ではない。グロテスクとも言える「神のぶどう踏み」の異様な光景である。エドムから、その都のボツラから、赤い衣を着てやって来る者がある。エドムはヤコブ(イスラエル)に対抗する双子の兄、エサウのゆかりの地である。その者は「勢い余って前につんのめっている」という。この異様な風体を見て、人がこれに尋ねたという。「なぜ貴公の衣は、ぶどうを踏んだように赤いのか」、それに答えてこの者が言う。「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ憤りをもって彼らを踏み砕いた。

それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した」。

この者は、「ただ一人、酒ぶねを踏んだ」という。ぶどう踏みは、喜びに満たされた大勢のものたちが、恵みに感謝して、共に喜びつつ行うものだ。「たった一人で」とは、ぶどう踏みに最もふさわしくない振る舞いである。どうしてか。誰も自分に与せず、誰もかれも不従順なので、たった一人で、怒りをもって、憤りをもって、まつろわぬ諸国の民を踏み砕いたのだという。6節「わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり/わたしの憤りをもって彼らを酔わせ/彼らの血を大地に流れさせた」。神は、この上ない怒りと憤りとをもって、諸国民、イスラエルをも含めて、罪ある者たち、そのみ言葉に耳を傾けぬ不従順の民を、踏みにじり、踏み破り、踏みつぶす」というのである。もっとも喜ばしい祭りの時が、残忍な血の粛清の時となる、というのである。黙示録14章には、このヴィジョンが増幅されて記されている。

ところが7節以下には、前節までと打って変わって、主の慈しみと恵みとが思い起こされ、こう告げられる。7節「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを」。そしてイスラエルの神はどういう方であったか。9節「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった」。しかし人間たちは、「彼らの苦難を常にご自分の苦難とする」ような、その慈しみと愛を忘れたのである。だから「主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」のである。

デューラーの風変わりな作品に、『ぶどう圧搾機となられたキリスト』という絵画がある。傷だらけの主イエスが、ぶどうを踏んでいる。そして自らもぶどうの圧搾機、中世にはこのような形の機械が用いられて、ぶどうが絞られたのである。この機械を利用して、グーテンベルクは活版印刷機を作った、に架けられて、血が絞り出される有様を描いている。神の怒りと憤りは、実に主イエスに向かったのであり、自らも十字架というぶどう絞り機に踏みしだかれる姿は、「人々の苦難を常にご自分の苦難とする」というみ言葉を、何とか目に見える形に描こうとしたのである。

大きな震災、原発の事故、そしてコロナ、現代においても、私たちに苦難が無縁なものではないしるしである。そして神を忘れた人間の営みがある。「怒りと憤りのぶどう踏み」とも言える十字架によって、それを受けることで「人間の苦難をご自分の苦難とされる」、主イエスのこころを、この絵画からも知ることができるのではないか。受難週を迎えた。主イエスのお苦しみを、間近にふれたいと願う。