祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙2章1~16節

この国の最高裁判所の正面玄関から入り,目の前にある階段を上ると,そこには,大法廷へと続く壮大な「大ホール」が広がっている。その広大な空間に、いくつかのモニュメント(像)が置かれている。よく知られているのが、「正義像」、左手に天秤,右手に剣を持ったブロンズ像は,ギリシャ神話の法の女神「テミス」をモデルとして作られた像である(作者:圓鍔勝三)。左手が持つ「天秤」は「公平・平等」を表し,右手の「剣」は「公平な裁判によって正義を実現するという強い意志」を表しているという。「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」に過ぎず、正義と力が「法」の両輪であることを表すとのひとつの解釈もなされている。テミス像にはいろいろな様式があり、「目隠し」をされている「像」もある。それは、彼女が前に立つ者の顔を見ないことを示し、法は貧富や権力の有無に関わらず、万人に等しく適用されるという「法の下の平等」の法理念を表すとの見方もなされている。この像の理念の通り、「法」と「正義」が、がちっとひとつに組み合わされて、この世の中を導くことをすべての人が望んでいるだろう。但し、この世の裁判で「裁き」「裁かれる」のは、どちらも共に神ならぬ「人間」である。犯罪者が人間であるのは、論を俟たないとしても、彼を裁く裁判官もまた、ただの人なのである。

主イエスは、誰か他人を裁く行為について、こう語っている。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか(マタイによる福音書7章1節以下)」。確かに主イエスは人間の現実をよく知っておられる。他人の目の微小な「おが屑」は、はっきり見える、それを針小棒大に言い募る、ところが肝心の自分の目の中の巨大な「丸太」は、まったく気づかずにいる。気付いていたとしても、平気の平左で、誰か他人を裁くのである。こういうどうしようもない人間の性は、現代も変わることはない。

今日の個所、ローマの信徒への手紙2章の冒頭に、著者パウロはこう記している「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。この文言は、主イエスの「人を裁くな」と同じ趣旨の言葉のように見える。もちろんパウロも、この主の言葉伝承を聞いており、周知のこととして語っているだろう。しかしパウロの場合は、ローマという当代随一の都市に生きる人間の実情を意識して、そこに生じている問題に即して語るのである。

ここでパウロは、単に主イエスのみ言葉を踏襲して「人を裁くな」と勧めているのではない。事態はもっと生々しく、これが本当なら、まったく呆れる事柄が問題にされている。1章29節以下に、パウロはこの時代の人々の悪徳と呼べるものを、リストアップしている。曰く「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」。殊更、ローマ人だけがこうした悪徳に染まり、不義に染まった生き方をしている訳ではなかっただろう。神からの律法を身に帯びているユダヤ人もまた、これらの悪徳から決して無縁ではなかったということだろう。いわば律法のエッセンスとも言える「十戒」の中にも、より端的に、同様な戒めが記されている。そもそも「してはならない」と戒めるのは、「している」という現実があるから、語られるのである。さらに現代に生きる私たちもまた、これらの諸々の悪にまったく無関係に生きているとは、口が裂けても言えないだろう。

厄介な問題は、罪や悪と無縁ではないただの人間が、国や社会といった集団の秩序を保つためとの名目で「裁き」を行なうところに存する。即ち、自分の正義を絶対化し、和解や赦しをまったく慮ることなしに、断罪し、相手に徹底的に攻撃や報復をするところにあるだろう。自分もまた後ろめたいものを引きずりながら、叩けば埃の出る身でありながら、他人の罪を、殊更に叩こうとするのである。1節後半「他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。結局、他に向かう裁きの刃は、ついに自分へと向けられるのである。

よく「言葉はブーメラン」であると言われる。自分がかつて言った台詞が、自分に跳ね返って来て、自分を打つのである。他人を裁くその裁きの言葉が、そのまま今度は自分の罪を論い、罪に定めるものとなるとパウロは主張する。主イエスの地上での歩みをまっすぐ見るなら、神は、私たちの罪を厳しく裁く方というより、忍耐をもって憐れみを注ぎ出される方であることが分かるだろう。主イエスは、十字架の上で、罪人への赦しの言葉を語られたのである。それを思い起こすなら、もはや本質的に人間にできるのは、「裁き」ではなく、「悔い改め」をおいて他にないだろう。4節「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」。

最高裁の大ホールには、もう一つの彫刻が置かれている。幼く愛らしい姿の二人の子どもが、像に写されている。ちょっと目には、厳めしい「最高裁」には、およそふさわしくないようオブジェにも感じられるが、厳粛な裁きの場の「緊張」を解きほぐすかのような暖かなたたずまいである。それは「椿咲く丘」像と題されている。次の様な解説が記されている。「椿の花が咲く丘のベンチに仲良く座っている男の子と女の子のブロンズ像は,愛と平和をイメージして作られた『椿咲く丘』像です(作者:富永直樹)。公平な裁判によって世の中のもめ事をなくし,皆が仲良く平和に暮らせるようにとの願いが込められています。」

「神は、人々の隠れた事柄を、キリストを通して裁かれる」(16節)とパウロは語る。主イエスは、子どもたちをみもとに招き、「神の国このようなものたちの国である」と言われた。子どもたちが笑顔でお互いを見つめ、楽しくおしゃべりをし、共に仲良く遊んでいる姿を写しとっているその彫刻こそ、人間の正義のまことの表現であろう。おそらく厳めしい権威の抑圧によっては、ましてや殺りく兵器の抑止によっては、正義が実現されることはない。