「鍵をかけていた」ヨハネによる福音書20章19~31節

こういう新聞コラムを見かけた。「国民に在宅を促すため、大統領の命令でライオンとトラ800頭が全土に放たれた」。新型コロナの感染防止に、大統領が外出自粛を呼び掛けているロシアで広まったうわさだ。世界中で犠牲者が急増しているコロナ禍は大災害に匹敵しよう。恐怖や不安という危険なガスが充満した社会は、悪意のマッチ一本でパニックの炎が燃え上がる。歴史の痛恨を忘れまい。ペストが大流行した中世の欧州で「井戸に病原の毒を入れた」とされたユダヤ人が迫害された。日本でも、関東大震災の混乱の中、デマが朝鮮人虐殺につながった。現代ではあり得ない、と笑えようか。デマにあおられトイレットペーパーが店から消えたのは最近のことだ。緊急事態宣言が東京、福岡など7都府県に発令された。不安を抱えた不自由な生活を強いられる。そんなときほどデマに踊らされやすい。早くも食料や日用品の買いだめに走る人の姿も(西日本新聞4月8日付「春秋」)。
「千三つ」という慣用句がある。「大嘘つき」のこと、「千の内、三つしか、本当のことを言わない」。今この時、世の中で最も声高に語られているのは、「三密」である。「三つの密」(ダジャレのようだ)を避ける予防の基本を確認しようというのである。換気の悪い密閉空間、人が集まる密集場所、間近で会話したり、声をあげる密接場面が、ヒトからヒトへとウイルスが渡り歩く格好の機会なる。「密集」「密閉」「密接」の三つの「密」を避けるべしというのである。確かにそうだろう。人間の心もまた、「三密」状態になると、正しい判断が失われて、自分の目先のことしか見えなくなり、「千三つ」を容易く信じる状態に置かれてしまう。
「風通しの悪い狭い部屋」に「鍵をかけて」十数名の者たちが肩を寄せ合い、密かに集まっている。これは現在、最も危険で、避けなければならない状況である。その場所にいるのは誰か、皆さんのことでも、この国の若者のことでもない。他ならぬ主イエスの弟子たちである。19節「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。このみ言葉を読んで、皆さんはどんな思いにとらわれるだろうか。
「日毎の糧」の聖書の今日の当該箇所が、このテキストなのである。偶々、こんなにふさわしい(?)み言葉が記されている個所を目にするというのは、神のアイロニーとは言わないまでも、何かの因縁かとも思わされる。「新型コロナウイルス感染症」の被害を回避するため、「外出」を控えなさい、「自粛」をしなさい、「在宅」して「テレワーク」しなさい、と毎日のように、盛んに勧められている。外を恐れて鍵をかけ、家に籠もって息を殺して生活をしている、そんな雰囲気に耐えきれず、飼い犬の散歩を何度もする人が増えているそうだ。
主イエスが十字架に付けられた後の、弟子たちの有様である。自分たちの希望の主イエスが、無残にも十字架に釘付けられ亡くなられた。ところがその三日目に、墓に納めた主のご遺体が消え去ってしまった。マグダラのマリヤは「主は復活された」と言うのだが、何が何だか訳が分からない。「訳が分からない」という恐怖に今、弟子たちはおののき、怖れている。人間は先の見通しがきかない時に、これからどうなるのか皆目分からない時に、最もおびえ、うろたえるのである。
ところが、怖れて、扉に鍵をかけ、内に籠る弟子たちの目の前に、復活の主イエスが現われる。「あなたがたに平和があるように」。この主の言葉は、「シャローム、こんにちは」といういつもの挨拶の言葉である。いつもと変わらない、今までも何度も交わしてきた、先生と自分たちとの毎日のあたりまえの言葉、日常の挨拶が告げられる。日常が回復される、これほど慰め深いものはないだろう。災害の中で、不条理にもいつもの生活が奪われる時に、人間が最も必要とするのは、日常生活である。そして日常の最たるものは、こんな当たり前の、いつもの言葉なのである。それを他ならぬ主イエスが、懐かしい主が、再び自分たちに呼びかけてくれた。復活体験とは、「日常のことば」がよみがえる出来事でもある。
今の私たちの生活は「巣ごもり生活」と呼ばれる。この時の弟子たちの心持ちと、今の私たちのそれは、どこかでつながっているであろう。「巣ごもり」の中にあった弟子たちに、復活の主が姿を現してくださった、即ちおそれによって生み出された私たちの「閉塞」の中に、「閉鎖」された世界の中にも、やすやすと主は乗り込んでこられ、「シャローム、平和」のみ言葉を語ってくださる。今の私たちにとっても、何と深い慰めであろうか。
今日の聖書個所で興味深いのは、トマスの存在である。「ダウティング・トーマス」という慣用句があるように、「疑いのトマス」として有名な人物である。最初、復活の主が弟子たちに現れた時に、このトマスは不在であった、という。なぜ彼一人が部屋に籠っていなかったのだろうか。他の弟子たちのように、「巣ごもり」していなかった。食糧や生活必需品の買出しに出かけていたのか、あるいは市中に状況を探策に行ってたのか、「自粛」は嫌だとばかり、勝手にひとり行動していたのか、理由は記されていないから、確かなところは分からない。但し、弟子たちが「復活の主にお会いした」と証言した時に、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、わたしは決して信じない」、といきり立って反論するような人物だから、彼ひとりが外に出かけていた理由も、何となく想像できるのではないか。
確かにトマスのような人物は、良識ある他の人々からしてみたら、眉を顰めさせ、顰蹙を買うようなタイプの人間であろう。皆が「巣ごもり」しているのに、ひとり勝手なふるまいをする、足並みや調和を乱す行動を取る。その挙句に「指を釘跡に、手を脇腹に」と大見えを切る。こういう人物の振る舞いが復活伝承に伝えられているというのは、トマスを殊更に批判し、反面教師として論う意図からではないだろう。なぜなら、もう一度、復活の主は、彼のために姿を現し、み言葉を語っているからである。「指を釘跡に、手を脇腹に、信じない者ではなく、信じる者になれ」。この主のみ言葉は、異端者を排斥し、外に追い出す冷たい言葉ではない。かえって彼を包み込む言葉である。皆が恐れて引きこもる中、トマスのような人物もいる、これが初代教会の現実の有様だったのであろう。素直に信じる者だけを神は呼び集めるのではない。トマスもまた主に呼びかけられ、信じる者とされるのである。主の呼びかけなしに、私たちは信じることはできない。主の呼びかけだけが、教会に集う人々の唯一の頼りである。
冒頭の新聞コラムの続きだが、「ライオンとトラを放した」とのうわさを巡り、ロシア外務省報道官は「面白いが、実は伝統を考えてクマを放っています」と冗談で返し、否定したというのである。これくらい余裕を持って真偽を判じ、冷静に動きたい。デマはライオンやクマより恐ろしい。と結んでいる。
世界では、コロナウイルスの渦中でも歌が響いている、という。外出制限のイタリアでは、住人たちがバルコニーから一斉に歌ったり拍手をしたりして互いを励ましているそうだ。「きっと大丈夫」「全てうまくいく」。そんなメッセージも掲げられている。フランスやポーランドでも、しかり。プロのテノール歌手が自宅の窓からオペラの曲などを披露した。小さなリサイタル。「連帯」という大きな思いを込めたのだろう。人間は、苦しみやつらさを背負って生きていくように運命付けられた動物なのだと思う。だからこそ、歌を授けられたのかもしれない。歌で励まし、歌に励まされる。簡単にくじけないように。日常生活の閉塞を打ち破るものが、私たちの世界には確かにある。鍵をかけて部屋に引きこもっていた弟子たちに、復活の主が現われる。神はどのような閉塞にも、お出でになるのである。