最近、この町田でも、野生のクマが出没して騒ぎとなっている。都環境局によると、都西部の多摩地域にツキノワグマが生息しており、「クマが生息している首都」は世界的にも珍しいという。この都市の中にも、野生の動物は生き抜いている。「クマったことだ」などと言っていられない。素手で適う相手ではない。
こういう文章を読んだ、「一人の社会学者が、日本人は六〇年代にキツネに化かされなくなった、と語ったことがある。そこに大きな転換期が見え隠れしている」。キツネに化かされる、そんな馬鹿なことがあるか、と思われるか。こんな経験はないか、よく知っている道で、何度も通っているはずなのに、なぜか目的の場所に着くことができず、堂々巡りをして、へとへとになる。別に酒に酔っていたのでもないのに。こういう時に、昔の人は「キツネに化かされた」と言った。そういう経験が、六〇年代を区切りになくなった、と。
文章はこう続く「わたしの子どもの頃、そう、東京オリンピックが開催された一九六〇年代には、いまだ、日本の都市はこれほどきれいではなかった。人々は平気で路上にゴミを捨てていたし、唾や痰を吐き散らしていた。ついこの間まで、駅でも街中でも、ゴミ箱のまわりにはゴミが散乱していた。いまはゴミ箱が消えて、自分のゴミは家に持ち帰るようになり、街からゴミが消えた。トイレだって、どこでも汲み取り式だったし、汚かった。水洗トイレには神様もいなくなり、民話の舞台でもなくなった(赤坂憲雄10月22日付「日曜論壇」)。
家からも街からも闇が消え、隅っこや隙間が失われ、キツネと出会う怪異そのものが遠ざかった。日本社会は経済的に豊かになり、飢えの不安からも解放された。衣食足りて礼節を知るというべきか、市民意識の高まりが見られた。いつしか日本社会はきれいになり、ゴミや糞尿をはじめとした汚いものにたいする嫌悪感が高じていった。いや、それは限られた真実であったか」。
「ゴミや糞尿をはじめとした汚いもの」を後に残したまま立ち去る、というのは、今でも昔でも社会のマナー、ルール違反である。江戸時代には見事なSDGsが構築されていたという。後の世代に何とかしてくれ、とそのまま放って置くのは、余りに身勝手である。しかし残念ながら、自分たちではどうにもならないから、後に続く者たちで何とかしてくれ、どうにかしてくれ、という厄介なゴミや、容易に片付かない事柄や課題が、山積しているのが、現代という時代である。例を上げるまでもないだろう、暴力や戦争の根絶、核兵器の廃絶、平和の構築という課題、核のゴミの処理の問題等、「後の世代に任せる(お手上げ)」、と言われても、子どもたちはどう応えるだろうか。
創世記1章から話をする。この聖日から、「降誕前」節を迎える。そろそろクリスマスのことを考える時期になりましたよ、という節目である、月日の経つは、速いものだ。まず原点である旧約のみ言葉に立ち戻って、主イエスのご降誕を待ち望む心を整えよう、という次第である。礼拝では、しばらく旧約のテキストが読まれることになる。また私たちの教会ではこの日、「永眠者記念礼拝」が守られる。今日のテキスト、創世記の1章「世界の創造」が語られる個所が読まれるのも,意義深いことである。
「聖書」と名付けられた分厚い書物の第一頁である。通常、一頁目は一番最初に書かれた部分だろうと推測する、最も古い記述であると。ところがこと聖書については、そうは問屋が卸さない、現在のような形になるまで、千年以上の時間が掛っているのだが、最初の頁から順々に後ろへと記されたのではなくて、あちらの個所、こちらの個所が徐々に集積されて、次第に大きな文章のまとまりとなり、くっついて膨らんで来たという具合である。こと「創世記」に限っても、一番最初の一章は、最も新しい部分、一番後の時代になってから付加された部分なのである。その時代とは紀元前6世紀、バビロン捕囚のさ中に、このような「創造物語」が語り出されるのである。
バビロニアとの戦争で、聖書の王国ユダは、それまで築き上げた一切合切をすべて失う。壮麗なエルサレム神殿を始め、堅固な城壁に守られた町々、宮殿、人々の住居一切は破壊された。そして人々は虜囚としてバビロンに連行され、異国の町で暮らすことを強いられたのである。「何もかも奪われ、何もかも失い、すべてのものが人間から抜け落ちました。金も、権力も、名声もです。もはや何ものも確かでなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。すべてが疑わしいものになりました」と語る聖書の民の末裔、フランクルの言葉は、このテキストが記された時代の状況と、軸をひとつにしているのである。
そういう「すべてが信じられなくなった」時代に、それでもまだ、何を語ることができるのか、そういう思考の末に、語られたのが、創世記の一章なのである。2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。「地上はめちゃくちゃに荒れ果て、すべては真っ暗闇で、暴風が吹きすさび、大波がうねっていた」、この記述は、太古の世界の有様を伝える情景描写ではなく、フランクルの言葉の如く、「すべてを失い、一切を奪われて」バビロンで捕囚として生きる聖書の民の心象風景であったろう。
その混沌に、神の言葉が響くというのである。「光あれ」、「すると光があった」。なぜここから始まるのか、「すべてが信じられなくなった」時代に、いったい何が必要なのか。何が告げられれば良いのか。「光、希望」だというのである、現代もまた同じであろう。神の創造のみわざは、「光」に始まり、ついに「人間」をもってひと段落する。人間が最も必要としているものは、実に「光」であるからだ。
27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。このみ言葉もまた、「光」との関連で告げられている。人間は、「神のかたち」であると言われる。バビロンにおいて、「神のかたち」とは、帝国を支配し、民の上に君臨する王のみに対する称号であった。人々は「神のかたち!」と王を呼び、賛美したのである。神の栄光を一身に受けて、それを身にまとい、光輝かす者こそが、「王」なのである。それに比して、人民はその足元にひれ伏す虫けら、それに仕える奴隷なのである。ところが、ここでは、神の光を受けて、それを輝き出すのは、あなた、わたし、誰でも彼でも、ただの人すべて、なのである。王とか貴族とか、特別の生まれや身分、血筋や社会階層などまったく問題とせずに、神の光はすべての人を照らし、その人の上に輝く。だから人間の尊厳とは、「すべてが奪われ、すべてが信じられなくなった」人間に、それでも神の光、栄光が宿っているという一点にこそある。
この「神のかたち」は、主イエスにおいてはっきりと表された。主イエスが人間離れをした神の子であり、およそ普通の人間にはできないような、とんでもない奇跡を行ない、どんな地上の王よりも、威厳と高貴さを皆の前に示したから、ではない。ただのひとりの人となり、家畜が食べる汚れた飼い葉おけの中に生まれた。その貧しく低い飼い葉桶が、しかし神の栄光に満ちて、輝いたことが告げられている。それは、この地上に生まれたすべての人間に、誰一人例外はなく注がれるいのちの恵みである。「すべてが信じられなくなった」時代に、それでも私たちに残るものは何か、遺されるものは何か、を深く問うているのが、創造の記述であるといえるだろう。
こんな新聞記事を読んだ。「杉並区の劇場『座・高円寺』でこの秋、イタリア人の手による創作劇が昨年に続き再演されました。『小さな王子様』、フランスの作家サン=テグジュペリの『星の王子さま』に着想を得て、劇作家のテレーサ・ルドヴィコさんが日本の子どもたちのために脚本を書き下ろし、演出を手がけた作品です。人間らしさとは、希望とは…。経済優先の混沌(かたちなくむなしく)とした現代社会への問い掛けが詰まっていました(東京新聞10月15日付社説「どんな木を育てますか」)。
「テレーサさんの創作劇にはもう一つ、重要なシーンが加えられています。種をまく老人の物語です。老人は、自分が生きているうちには見ることができない、木の育つ日を夢見て、よい種を選んで土にまいている。次の世代を思うこの場面はこの作品の一番伝えたかったメッセージではないか。そう感じて尋ねると、テレーサさんはバーリ近郊の故郷の街、ジョイア・デル・コッレで一人で暮らすお母さんを重ねたそうです。90歳のお母さんは『限りある水を未来の子どもたちに残したい』と一度使った水をバケツにため、水洗トイレに使うといいます。劇中の老人は『あんたたちに木を残せるのがわしの幸せだ』と言い残して舞台を去ります。あなたは次の世代にどんな木を残すのかと、問いかけてくるようです。次の世代に大切なもの…。それは木や水、きれいな空かもしれない。人生を豊かにする思想や差別や争いのない平和かもしれない」。
「創作劇」の中の台詞であるが、次の世代にこれを遺したい、と考えて、実際に残そうとしている人々が、確かに、この世界にはいるのである。もしそうしなければ、大切なもの、かけがえのないものが喪われてしまう、と痛む心を持っているからだろう。そういう人々は、やはり自分自身も前の世代の人々から、大切なものを受け取って、それを支えに生きて来たからなのである。残されたものがあるから生きることができた、それを受け取った人は幸いである。
私たちはどうであろうか。教会の私たちが後の世代に遺すものは、やはり「ことば」であろう。神の言葉は、空しく消えて、天に帰るのではない、そうではなく「神の出来事」となる。古の預言者は、こう告げた「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
この教会の信仰の先輩たちは、皆、ご自身のみ言葉を遺して、天に旅立っている。皆さんはどんなみ言葉を後に遺したいか。自分自身とひとつになっているような、「わたしのみ言葉」である。そのみ言葉は、空しく天に戻らないという。神のみこころを成し遂げ、与えた使命(祈り)を必ず果たす、という。「神は言われた、そのようになった」と聖書は語る。この言葉の真実を、信仰の先達たちから深く教えられるのである。