祈祷会・聖書の学び コリントの信徒への手紙二2章5~17節

「プルースト効果」と名付けられた現象がある。それは、特定の匂いを嗅いだとき、それに結びつく過去の感情や記憶を呼び起こされる働きのことを指す。この命名の由来になっているプルーストとは、フランスの作家・思想家のマルセル・プルーストのことで、彼の大著『失われた時を求めて』の冒頭部分の記述に端を発する。この長大な小説は、実に登場人物の主人公が、マドレーヌが焼けた匂いを嗅いだときに、幼少の頃の母との記憶を鮮やかに思い起こすという場面の描写から始まるのである。皆さんにはそのように「なつかしい匂いの記憶」によって、自分の過去の出来事を鮮やかに思い起こした、という経験はないであろうか。

私の生家に、一棹のベビー箪笥があった。物心ついた時分には、既にあったから、最初の子どもの誕生に合わせて、購入されたものだったのだろう。一番上の小引き出しには、糸や布切れといった裁縫の材料や小間物が雑多に入れられていたが、そこを開けると独特の匂いがしたものである。成長してから家を離れて、たまに里帰りしてその引き出しを開けると昔と同じ匂いが立ち上り、懐かしい思い出が蘇ったものである。

幾つの時だったは知らないが、外出先で眠ってしまったのだろう、抱かれて帰宅し、頭には毛糸の帽子が被せられたまま、寝床に寝かされたようだ。ふと目が覚めると目の前にいつものベビー箪笥が見える。ところが帽子のボンボンが邪魔になって前がよく見えないので、手でその玉飾りを弄っていると、兄がやって来て、私にあかんべえをして見せた。寒い寒い冬の日だった。箪笥の懐かしい匂いから、こんな思い出が記憶から掘り出されたのである。

人間が得る情報のうち、実に80~90%は視覚によるものと言われている。「見た目がすべて」と言えなくもないのだが、しかし、匂いや香りから得られた情報は、時として視覚から得る情報以上に深く、その人の心に刻まれることがあるのだという。丁度、懐かしい香りを嗅いだ時に、次から次へと懐かしい記憶が呼び覚まされて、フラッシュ。バックするような経験を、誰しも持っているのではないか。

しばらくコリント後書から話をする。現代の聖書学者たちは、この手紙が話の辻褄が合わない部分が多く認められることから、複数の手紙、大体5つくらいの書簡が混在して形を成していると考えている。それほど間隔を置かずに送られた書簡が、コリントにあるいくつかの教会(分教会)で、礼拝に朗読するために回覧されている内に、複数の手紙が一緒くたにされてしまった、ということである。素より手紙、要は「紙の束」である。パピルスの用紙(便箋)に記され、一通ごとに束にされて送られたのだろう。ページを打つ習慣もなく、きちんと冊子(コーデックス)の体裁にはされていないだろうから、ばらける可能性は十分にある。今日の個所では、どうやら5節から11節の方が、後の時期に送られた手紙で、12節以下の部分がそれより前に送られた書簡の一部らしい。

12節「主によってわたしのために門が開かれていましたが」、当然のことながら、パウロの伝道旅行は、常に順調に進展した訳ではない。彼は宿痾の病によって、しばらくの療養が必要とされたり、訪れた地域での活動が反発され、騒ぎが起こり「騒擾罪」で逮捕監禁されたり、さまざまな障害によって計画通りに行かないこともしばしばであった。時には予期せざる出来事(聖霊の働き)によって、事態が大きく変わることも生じて来た。それを「門が開かれる」と表現しているのだが、だからといって自分の思い通りということではない。「テトスに会えず、不安な心で」と吐露するように、時に「ひとり立たされている」という強い孤独感に苛まれたようにも見える。パウロもまた「ひとり」の淋しさに悩んだのである。

続く14節以下には「キリストの勝利の行進」が言及され、そこに供せられる「薫香」について併せ語られる。ローマの凱旋将軍は、人々を前に勝利を祝う凱旋式を行ったが、そのパレードには煙の立ち上る「薫香」が焚かれるのが常であったという。神仏や貴人に対して香を焚いて祝意を表することは、古今東西の慣わしであるが、凱旋の英雄にもそれはふさわしいこととして見なされたのである。だから神仏であれ、皇帝、将軍であれ、行列のある所には、「薫香」は必ず備えられるものであった。「薫香」の記憶と共に、華々しい行列の思い出が心に刻まれるのである。

凱旋の行列には、将軍が率いる軍功のあった兵隊たちが追従する一方、敵側の虜囚も見せしめのために引き立てられ、列を共にしたのである。凱旋式が終われば、彼らは処刑されることになる。するとあの勝利を祝う香り高い薫香もまた、「死の香り」として感じられることだろう、とパウロは言う。当時のキリスト者にとって、迫害によって囚人のように官憲に引き立てられて行く行列を、人々は度々目にしたことだろう。ちょうど敗戦の「虜囚」を見るような面持ちで、これを眺めたことであろう。もちろん、ここには「薫香」が焚かれはしない。しかしキリスト者自らが、「薫香」となる、というのである。「キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」。

なぜキリスト者は、「薫香」なのか、結局、それは「煙」である。はかなく空中に上り消えてゆくように見える。ところがそれは目に見えないが、その証として「香り」を漂わせるのである。さらになぜ宗教儀礼にそれが用いられたかと言えば、香ばしい煙は天に上り、天にいます神のもとに届くと信じられたからである。だからそれは「祈り」の表象と見なされた。「はかなく、目には見えない、しかし祈りとして」神に向かう、これはまさしくキリスト者の生きる姿ではないか。「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」というように、その香りは、人それぞれに受け止められようが、確かにキリストを証しし、その香りにふれる人の記憶に刻むのである。

あるクイズ番組で、「自分の家の匂いには鈍感なのに、他所の家の匂いが気になるのはどうしてか」という質問があった。答えは「危険を感じるから」でした。言い換えれば「自分の家は、安全だと分かっている」から気にならない、ということである。確かに身近な動物である犬や猫は、嗅覚が鋭く、敏感である。「香り、匂い」によって、「危険・安全」を確かめている、ということである。私たちもまた、キリストの香りにふれて、安心・安全な居場所に、知らず知らずのうちに、身を置いているのであろう。