祈祷会・聖書の学び ヨハネの黙示録14章14~20節

随分前に、八月の中旬、15日過ぎに、研修で東北地方の八戸近辺を訪れたことがあった。暦の上では「残暑お見舞い」を口にする時期ではとはいえ、この国では未だ連日、酷暑の続く頃である。ところがかの地では、日中の気温は15度程度にしか上がらず、田圃の稲は青々と茎丈も短く、肌寒い風に吹かれて揺れていた。朝、ランドセルを背負った子どもたちが登校して行くので、聞くと今日から二学期の開始だという。宮沢賢治が『雨ニモマケズ』の中で「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ」と詠っているが、それは今も同じことなのだろうと思わされた。

「農」に携わる者にとって、作物の成長は、水やり草取り等、日々の務めを行なうことによるというものの、自らの努力だけでは決してなされるものではなく、その実りは天の恵みであることは言うまでもないことである。ITによって高度に管理された農法でも、自然災害の憂き目をみることもしばしばである。だから、「収穫」は何より喜びの時であり、祭りをおこなって、神と自然の恵みに感謝し、更なる収穫を祈願したのである。

今日の聖書個所は、収穫の有様が、神の裁きの喩えとして語られている。前半は麦(小麦)の刈り入れであり、後半17節以下は、ぶどうの実りの刈り入れの様子である。この2つの作物は、聖書の世界におけるもっとも一般的な作物であり、この2つの収穫は、人々の幸せと豊かさと平安の象徴でもあろう。ところがこの記述は、収穫の幸いを寿ぐ意図で語られるのではなく、かえって「災いの告知」として語られるのである。なぜ、「収穫」が「災い」であるのか。

黙示録14章では、その前半の個所で「天上の大合唱」が記される。それを歌う合唱団の人数は破格である。14万4千人の合唱だという。ギネスブックでの、最も大人数の大合唱の認定記録は、1万4千人であるから、実にその10倍の人数である。この数は、7章に掲げられている「額に刻印を押された真のイスラエルの子ら」の総数に相当する。一部族当たり一万二千人、その12倍、12部族分である。この大合唱は何のことか。

大合唱団は歌う「大バビロンは倒れた」と。「バビロン」はかつてエルサレム神殿を破壊し、ユダ王国を滅亡させたバビロニア帝国の都であり、そのまちにユダの人々は「捕囚」にされたのである。その都に勝るとも劣らぬ大都こそ、ローマ帝国の首都ローマである。このローマ帝国によって、ユダヤの国は滅亡させられ、ヘロデ大王が改築した大神殿であったエルサレム神殿もまた、紀元70年の「ユダヤ戦争」において、根こそぎ壊滅させられたのである。しかしその昔、バビロニア帝国が、ペルシアによって打ち破られ、麗しい都バビロンもまた崩壊の憂き目を見たように、さしものローマも永遠の都ではない、いつかバビロンのように倒れてゆくであろう、それが「大バビロンは倒れた」との大合唱なのである。黙示録の時代、ローマ帝国は向かうところ敵なしの絶頂期を迎え、爛熟と傲慢の中に我が世の春を謳歌していた。ところがその権勢も栄華も、いつか必ず費える、それこそが黙示録著者の、諸教会に一番の伝えたいメッセージなのである。

しかし、また性懲りもなくヨハネの弟子たちが、余計な付加をしてしまった。それが14章以下、おそらく17章まで続く「災いの予言」である。18章からは「大バビロンは倒れた」喜び大合唱が再び始まり、終曲が奏でられ、華やかなエンディングとなる。

ヨハネの弟子たちは、災厄、大きな禍を描くことが好きなようだ。確かに大きなカタストロフは、人々の心を鷲づかみにするのに、格好の装置である。ある国では、数年毎必ずと言っていいくらいに、小惑星が地球に衝突する恐怖と、その回避を企てる人間の勇気を描くパニック映画が作られ続けられている。相変わらず地球上の国々は、今なお戦いに明け暮れている。戦争は勝っても負けても、決して利益にならないことを、一世紀以上前に学び、知らされたのに、今も性懲りもなくである。もしかしたら、全世界の破滅をもたらすような地球規模での災厄が、世界の国々をことごとく一致させ、団結させる機運になるかもしれないという皮肉な見方もできるだろう。

再びここから災いの記述が始まる。しかもご丁寧に、また7つの災いだという。それらの災いの導入として、収穫の幻が語られる。黄色く色づいた麦畑に、大鎌が入れられる。また熟したぶどう畑に、天から鎌が投げ入れられ、ぶどうが収穫され、絞り桶に投げ入れられる。熟した麦の穂が日にかがやき、その穂に鎌が入る収穫の時、またぶどうがたわわに実り、色づいて豊かに実り、絞り桶に入れられる時は、一年の内で一番の喜びである。絞り場に集まる人々によって、ぶどう絞りの歌が歌われ、新しい酒の祝いがなされる。

しかしその喜びの時であるはずの収穫は、血に変わるというのである。19節以下「そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。 搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった」。豊穣のぶどうは、「神の怒りの絞り桶」に投げ込まれる。そしてその汁は、血のように流れ出て、1600スタディオンに渡って広がった、という。1スタは180メートルであるから(競技場は「スタディアム」と呼ばれるが、それは180メートルの走路を備えた場所という意味である)、288キロにあたる。一説にこの距離は「パレスチナの範囲」を表すとされる。

ユダヤ戦争によって、ユダヤはローマ帝国に滅ぼされ、エルサレムはじめ国土は荒廃した。ローマの勢力は圧倒的で、向かうところ敵なしである。その絶頂(小麦とぶどうの豊作)の中で、既に神の大鎌は大きく振るわれ、裁きが始まろうとしている。たくさんの人々の血を流した大きな罪のゆえに。言いたいことはよくわかるが、神の裁きを、災厄とすぐに結びつける発想はいかがなものか。しかしその光景は、スペクタクル映画のように、私たちの眼前に、想像を翼を拡げるのである。

歴史を学んだ私たちは、ローマ帝国がその後どのような道をたどったのかを知っている。ヨハネの黙示録の告知は、現実のものとなったのであるが、それはかの国だけのことではなく、自分自身に関わって来る事柄として読まれるべきであろう。最近、全世界を巻き込む異常気象、大規模な自然災害は、神の怒りのあらわれとは言わないまでも、人間の自分勝手な営みに対する、この小さな惑星の呻きであると考えることはできないだろうか。