「ファンタジー」と呼ばれる文学ジャンルがある。普通「幻想文学」と訳されるが、現在では「児童文学」の典型的なジャンルと見なされている。この世界とは一線を画したもうひとつの別の世界、そこは「魔法の国」のような非日常の場所で、そこには魔法使いや魔物など異界の住民がおり、登場人物がその世界を旅や遍歴しながら、さまざまな事件に巻き込まれて冒険を重ねる、というのが大方の筋書である。特に、未熟な若者である主人公が、経験を重ね、挫折し、研鑽を積むことで一人前に成長してゆくプロセスが、ドラマの中枢となる。この国では、コンピュータ・ゲームの題材として、この形式が用いられる場合が多い。さまざまな怪物や魔物、龍や悪魔といったいわゆる「敵」を倒しながら力を増し加え、ついの目的地へと歩みを進めるのである。
「ファンタジー」という言葉の語源は、ギリシア語“phantasia”「想像力」から来ている。もともと「外見、イメージ、認識」という意味の語であるが、これは、“phantazesthai”「自分に絵を描く」という用語から派生し、「見える」という意味の“phantos”、そして「現れる」という意味の“phainesthai”という語から、「イメージする、幻視を持つ」の意味で使われるようになったと説明される。これらは“phaos、phōs”「光」、“phainein”「見せる、光をもたらす」と関連しており、別の世界に目を注ぐことで、新しい光(希望)を見ようとする行為という意味合いを持つとも言えるだろう。
「ファンタジー」を単に「児童文学」の一つと捉え、子どもじみた世界観の現われとだけ理解するのは、浅薄な考え方であろう。誰しも自分の抱える現実に、自分の願いや思い通りにいかないもどかしさを感じ、ストレスに苛まれるだろう。それを放って置けば抑圧や憂鬱が蓄積し、精神衛生上、好ましい状態ではなくなる。現実に執着し、現実に押しつぶされそうになっている人の心を、解きほぐす装置が必要となる。困難な現実しか見えなくなっている目を、異なる世界に向けさせて、心の呪縛を解き放とうというのである。ファンタジー文学はそういう働きの一助となるであろうし、黙示録もまたそのような意図を持って記されているとも言えるだろう。
今日の聖書個所は、ヨハネの黙示録の2章であるが、本書を理解する上で、非常に重要である。そもそもなぜ黙示録が書かれたか、著者の意図がはっきり分かるからである。2~3章にかけて、7つの教会へのメッセージが語られる。「7つ」というのも、数へのこだわり、象徴なのだが、当時の主(おも)だった実在の教会の数であろう。それぞれの教会について「評価」が下され、叱責やらアドヴァイス等が語られている。並べられ、ひとつ一つにコメントが加えられ評価されているが、「黙示文学」ゆえに、表現は独特だが、非常に現代的な感覚である。会社の理事会での、各営業所業績評価報告書のような趣きでもある。こういう体裁に、読む人の好みは分かれるだろうが。
まず「エフェソ」の教会、まずまずの評価である、時代の空気に押し流されない、堅実な歩みをしていることが伺える。「初めの愛から離れる」とは何を指すのか。礼拝や集会、教会の活動がルーティン・ワークに陥って、信仰が定式、形式化したのかもしれない。真面目で努力しているが、そこに喜びがない、ということか。楽しくないのだろう。取り去られる「燭台」とは、皆の中心にあって、集まる人々の心を明るく照らし、暖かくするもの、という象徴なのだろう。その喪失が告げられるが、これは私たちの教会にとっても、鋭い問いである。
次に「スミルナの教会」、この個所は、私自身にとって、繰り返し立ち返るみ言葉が置かれた個所でもある。教会が、周囲からの迫害や攻撃を受けていたものと思われる。それほど規模が大きくなく、小さな教会であったろう。この教会については、何も批判や説教がましい類のことは記されていない。この短い文言の中に「死」を連想させる言葉が、いくつも散見される。おそらくヨハネは、この教会の行く末に、大きな心配や危惧を感じている。最初に復活や再臨についての言及があり、さらに「第二の死」という言葉から、教会の主だった者たち、指導者が投獄され苦しめられ、あるいは生命の危機にさらされている様子が伝わって来る。さらに教会がいつ消滅してもおかしくない状況だったのかもしれない。その中で10節のみ言葉が響く。「死に至るまで忠実であれ、そうすれば命の冠を与えよう」。いささか重い励ましではあるが。
『モモ』、『はてしない物語』の作者ミヒャエル・エンデは、ファンタジー文学の騎手だった作家だが、「ファンタジー」の意味を、『はてしない物語』の中で、次のように語っている。「ファンタジーの世界に、決して行けない人間がいる。またファンタジーの世界に行きっきりになって、帰って来られない人もいる。しかしほんのわずかだが、ファンタジーの世界に行って、こちらに再び戻って来る者がいる。そういう人間がこの世界を健やかにしているのだ」。ヨハネの黙示録の執筆の意図は、これに言い尽くされているだろう。但し、現代に生きる私たちも、それは無縁のことではない。教会は、「集められ」、そして再び「散らされる」場所である。その真ん中にあるものが、「礼拝」なのである。そこに行けない人、行きっきりになる人、そして行って、戻って来る人、さまざまかもしれない。
黙示録が書き送られた諸教会は、目に見える地上の教会である。迫害やら周囲の人々の無理解やら、教会内部の対立や葛藤、いろいろな問題をはらんでいた。そしてそうでありつつも、キリストの教会として、今できる精いっぱいの歩みをしている。そこに集められた人々は、キリストのからだにふさわしい群れとして、誠実に歩みたいと願い祈っている。そういう誠実な教会の姿が、随所に読み取れるのである。
しかし一番の問題は、「ぶれる」という状態なのである。善意によって、他への配慮から人間はとかく「忖度」をするものである。それによって「ぶれる」ということが生じる。さらに教会は「まじめにぶれる」から、却って始末に負えない、真面目に捻じ曲がるのである。どうすればいいか。上から目線の「お説教」ならば、人は本当には心を開かないだろう。どうにかして聞いてほしい。だからヨハネは、「ファンタジー」という手法で、ぶれてはならず目を反らしてもならない「ただキリストのみ」を語るのである。嵐と暴風の中で、ただ主イエスの姿に目を凝らしたペトロは、水の上を歩いて主のもとに歩むことができた。しかし「波が怖くなり」主から目を反らした途端、おぼれかけるのである。しかしそこでも主のみ手が、彼をつかむのである。この強い御手に私たちの希望がある。