「行きたくない所へ」ヨハネによる福音書21章14~25節

4月になり、朝、道行く子どもたちが、真新しいランドセルを背負って登校してゆく姿を見かける頃となった。「まるでランドセルに背負われているよう」、いう形容があるが、学校という新しい環境にまだ不慣れで、不安な面持ちで歩み出している背中を、重く大きなランドセルが覆い隠している、という風情だろうか。「天使のなんとか」というネーミングの製品が売られているが、不安な背にも見えない御手のみ守りがあるようにと祈りたい。

さてこういう文章を読んだ。「大人なら一度、こう言って買い物がしてみたい。『この店で一番いいヤツを』。そんな客が多いのは、ランドセル売り場だという。祖父母が孫のために選ぶ大切な贈り物。「金に糸目はつけないから」とまで言うかどうかは知らないが。今年の小学新1年生のランドセルは平均5万9138円。購入額は年々右肩上がりで、6万5千円以上が全体の4割近い売れ筋。細やかな手仕事ほど値が張るものだが、この業界の職人は『60代なら若手』と言われるほど高齢化が深刻とか。買う方も作る方もシニア世代が支えている」(4月12日付「有明抄」)

「この店で一番いいヤツを」こういう買い物ができるのは至福のことであろう。大体、貧乏性の人間は、こんな大それたことは中々口にできないものだが、一度くらいはそう見えを切って見たい。「孫」とはそういうチャンスをも与えてくれる存在なのか。皆さんは、買い物に行くのは好きだろうか。亡母が晩年、重い認知症を患う中で、それでも買い物を楽しんだ姿を思い出す。道の駅で、店に並べられている野菜やお菓子等、ありふれた物品なのだが、実にうれしそうに品物を手に取って、何でもかんでもかごに入れるのである。すぐに買い物かごは一杯になって、こんなにたくさんどうするのか、という有様だが、こんなに生き生きしている姿を久しぶりに見たような気がした。何か好きなものを見つけ、これを選んで、自分のものとするのは、生きている実感、証なのだろう。年齢を重ねて、人間はいつか何もできなくなる、何も判断できない、好き嫌いも言えなくなる、のではない。やはり「好き」は残るのである。

今日の聖書個所は、現行のヨハネ福音書の最後の部分、掉尾を飾るにふさわしい話である。麗しいガリラヤ湖の畔での朝食の後、主イエスがペトロに問いかける。「あなたはわたしを愛するか」。この問いを主は三度繰り返される。「愛するか、好きか」この三度の問い掛けをどう考えるだろうか。単純に考えれば、主イエスが十字架につけられる前の晩、捕縛された主イエスの後を密かについて行って、大祭司の庭に潜んだペトロが、使用人の女から「あの人の仲間だね」と言われた時、思わず知らず「あの人のことは知らない」と否認した、あの「三度の裏切り」に対応している、ということであろう。「三度」否定されたからには、その意趣返しで「三度」確かめる、という塩梅である。しかし、そんな数合わせのような意図だけで、このやり取りが記されている、ということではないだろう。

この「愛するか」という問いの言葉が、しつこく繰り返されることに、深く興味を覚える。この「あなたはわたしを愛するか」という問いは、初代教会の洗礼式文に遡るのではないか、と推定する学者がいる。洗礼志願者は、この問いに皆の前で「愛します」とはっきりと答えて、バプテスマを受けるのである。洗礼自体は一生に一度限りのことである。よく「結婚はゴールではなくスタートである」と言われる。決してそれは「人生の墓場」ではなく、そこから新しい生活が始まるのである。「生活」だからいろいろなことが起って来る。晴れの日ばかりでなく曇りや雨の日、暑さ寒さが襲う、文句の一つや二つ、百、二百も飛び出て来るだろう。しかしそれが生きるという実態である。その如くに「洗礼はゴールではなく始まりである」と言われる。「主を愛する」という言葉を、一度告白したら、もうそれでよい、ことは済んだということにはならないのだろう。信仰者は繰り返し繰り返し、あの洗礼の時と場所に連れ戻され、この問いを聴くことになる。そして繰り返し答えることになるのである。かつて、その言葉を問われた時には、自分は何も分かっていなかった、何も知らなかった、しかしその私を赦し、受け入れ、手を伸ばして、み恵みに包んでくださった主がおられた、そこに立ち帰らなかったら、私たちの信仰生活は続くはずがない。

かつて大祭司の庭で、ペトロは、主を「知らない」と口にした。文字通りには「私でない」という言葉である。聖書で「知る」とは、「関係、関心、絆」を表す言葉である。あの時、彼は、主イエスと自分とは「無関係」「無関心」だと主張したのである。そして人はこの「知らない」を口にするとき、自分自身も消えて無くなってしまうのである、自分があるということは、努力や精進や熱心ではなく、「愛」があることなのである。人間は、生きる中で、ややもすると「愛」を失う。それを取り戻すかのように、主は「わたしを愛するか」と三度繰り返されるのである。「好きなところ、好きなこと、愛するべきもの」があるということは、まさに生きていることの証であり、生きる意味であり、生きる価値であろう。それをはっきり口にできるというのは、何という幸いであろう。

ところが主イエスは、ペトロにさらに語られる。18節「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それに続けて「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と注釈されている。「行きたくない所」とは、牢獄、裁判所、処刑場、迫害され殉教するという、この使徒の運命の場所、ついの場所である。

この「行きたくない所」について、ただ迫害、殉教という見地からだけ理解するのは、狭量であろう。人間にとって、好きなところ、行きたいところ、愛するところがあることが、「自分がある」という証なのだが、それでもなお「行きたくないこころ」にどうしても行かなくてはならない、ということが起こって来るのが、人生の真実というものである。皆さんにとって、行きたくない所とはどんな所だろう。

多くの人に尋ねると、返ってくる答えは、病院、とりわけ歯科医院だという。それにしてもいつ行っても大勢の人がそこにはひしめいているのはどうしたことか。あるいは税務署はじめ公的手続きをする役所、仕事場、また学校という答え、「自分の家」という答えもあるかもしれない。人は皆、あまり行きたくない場所がある。あるアンケートによれば、老若男女95%の人が「できれば行きたくない所」として挙げているのは、「人ごみ」である。たくさんの人でひしめいている場所には、行きたくない、それにもかかわらず、同時に、それでもそこに人は行くのである。嫌でも行かなければ、生きられないではないか。やはり人間は共に生きる生き物なのである、寂しいのは嫌いだ、群れるのである。そして安心する。こういうところに人間の特性が良く表れている。行きたくない所に、それでも行かないわけにはいかない。この辺りの心の動きのほんとうを、今日の個所では見事に描いているといえるだろう。

20節「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。 ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った」。ペトロは振り向いて、もう一人の弟子ヨハネを見て、思わず漏らしたというのである。「この人はどうか」、生きることにおいて、他の人の有様を窺って己のそれと引き比べることに、まことの意味はない、比べてもどうにもならないのである。それでも人は、他の人を振り向くのである。これは長い間、学校で相対評価、つまり「比べること」を強いられて来た習い性なのかもしれないが。

こんな詩がある「トマトがねえ トマトのままでいれば ほんものなんだよ/トマトをメロンに みせようとするから にせものになるんだよ/みんなそれぞれに ほんものなのに 骨を折って にせものになりたがる」、「にんげんだもの」でおなじみの相田みつを氏の「みんなほんもの」という作品である。「みんな骨を折って」、つまり努力や苦労をしてほんものにではなく、「にせものになりたがる」というのである。「この人はどうなるのでしょうか」と言って、他の人を観察しても、がっかりさせられたり、自分のほうがましか、とわが身を慰めるくらいのもので、自分の人生が変わる訳でもない。

イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」。「わたしを愛するか」と主は私に言われる、他の人が絡む余地はない。繰り返し問われ、繰り返し答える、いつもはっきり、しっかり答えられるのではない。ペトロも口ごもり、心を痛め、戸惑いながら、主に向かうのである。しかしそこからわたしは、私自身のほんもの、になるのである。他の人の答えではなく、あなたの答え、わたしの答えを喜び、これに確かに答えてくださる方がいるのである。