祈祷会・聖書の学びフィリピ4章2~9節

「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」、18世紀、フランスの哲学者、文学者、歴史家のヴォルテールが語ったされる言葉がある。「寛容」についての、教科書的な原則論ではあろう。ところが、不寛容な人物に対して、「寛容になれ」と要求する、その押し付けは、不寛容を容認しない「狭量な行為」即ち「不寛容」に当たるのではないか。「寛容」の価値を強調する者が、「不寛容」な態度を示す、「寛容のパラドックス」とされる事態である。

自分の評価しないものを尊重することは難しい。現在、世界では社会的分断が進み、暴力さえ辞さない不寛容が拡大している。日々、SNSをはじめとするネット上で目にするのも、相手の人格を全く否定し誹謗する言葉ばかりである。この国のある詩人は「みんな違ってみんないい」という美しい言葉を紡いだが、それはたぶん、平和な社会で同じような考えの人々が集まっている所なら可能かもしれない。現代世界は、価値観でも宗教観でも、本当に根本的に違っている人たちと共存していく課題を突き付けられている時代である。「嫌なら出ていけ」ではなく、それでも相手を邪魔したり、罵倒したりすることなく、最低限の礼節をもって対応することが理想だとは思われるが、その道は隘路に見える。どうしたら私たちはその細道をたどることができるのだろうか。

フィリピの教会は、パウロが特に信愛の情の深かった教会である。そのことは1節にストレートに記されている。「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」。このような呼びかけは、他の手紙には見られない最大級の賛辞である。体は離れていても、心がしっかりと結ばれている様が、リアルに伝わってくる。

そして今日の聖書の箇所、2人の女性の名前が記されている。エボディアとは「成功」、シンティケとは「幸運」という意味で、どちらも縁起の良い名である。おそらく名は体を表しているだろう。この二人は、「クレメンス、(おそらく教会の庇護者)、他の協力者と力を合わせて、福音のためにわたし(パウロ)と共に戦った」と記される。「力を合わせ、共に」、これだけでもこの二人の女性に対して、最大級の賛辞をパウロは送っていることが分かる。教会での働き、「良いわざ、愛のわざ」は、余分なものを除ければ、これに尽きるであろう。教会は何をしたか、何ができたかで評価される所ではない。

極めつけは、この二人の女性は「命の書に名前を記されている」のだという。どれだけ教会に熱心であったか、彼女らの存在が大きかったかを物語る文言である。古代には「神は救われるべき人間の名を記した、いわばライフ・ノートを携えている」、という神話的な発想があった。神以外にのぞき見することは許されないノートなのだが、きっとそこには彼女たちの名が記されているはずだ、とパウロは強調する。

そういう二人の女性、エボディアとシンティケ、彼女たちはこう評されている。「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の同労者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれた」。「福音のために、共に戦った」、福音のために共にという言葉は真実であろう。人のために、誰かのために、というと何がしか偽善的な匂いを感じるが、「福音のために」とは、言葉を換えれば「喜びのために」ということで、伝える私たち自身がまず喜びに満たされる、ということである。自分がまず喜んで、その喜びが相手に伝わることを願いながら働く、ということで、喜びを中心に、人の輪が広がる、ということでもある。人のため、善のため、というだけでは、人は一つにはなれないかもしれない。しかし「お祭り」が典型のように、喜びのためには、人はひとつになれるのである。ここでは具体的にフィリピ教会の設立のことを指しているのだと思われる。

ところがそういう二人、喜びのために力を合わせるふたりが、どう語られているか。わたしはここに原始教会の生の息吹を聞くのである。「主において同じ思いを抱きなさい」。この言葉が示しているものは何か。それは二人が「仲たがいをしている」ということである。しかもパウロの下に情報が寄せられるところを見ると、絶交と言っていいくらい修復不可能、酷い状態にあることが想像される。この事実を、福音で協力しても、人間は仲たがいをする、と捉えるか、仲たがいしても、福音のためなら協力し合えると捉えるか、どちらであろうか。

これを訴えられたパウロの答え方は、実に牧会上興味深いものがある。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」。わざわざ同じ言葉を二度繰り返し、二人まとめてではなく、ひとり一人にそれぞれ向かい合って、ねんごろに語ろうというのである。そして「主にあって、あなたの思いを、ひとつに集中して」と促すのである。つまり「仲間じゃないか、相手のことをもっと思いやって」、と諫めるのならば、また腹も立つだろう。そうではなく、ただ「キリストひとり」のことだけを思いなさい、あの「十字架で苦しまれた方を」いうのである。

さらに、「くびきを同じにする者よ」、彼女たちに密につながっている人たち、つまり教会の仲間に、もちろんひとり一人、人間と人間との関係で、同じように悩み苦しんだことがあろう、そうした教会の人たちにパウロは呼びかける。彼女たちが仲直りできるように働きかけるのではなく、キリストについて、ただキリストについて二人が思いを深められるように、支えなさいというのである。ただキリストだけを、ここに終始するのが教会である。教会はただひたすらキリストを示すところ、もしキリストを指し示すことが出来ないなら、もはや教会ではない。

われわれは、日常生活では誰しもいろんな判断を心の中でしているわけである。好き嫌いだとか、善悪だとか。中にはどうしても、好きになれない、いいと思えないこともあるだろう。そのことを表に出さないように努めはするけれども、どうしても心の中のそういう思いが、止められないことはあると思う。『不寛容論』を表した森本あんり氏はこう語る「そのときに、『自分は案外不寛容な人間だな』と気がついて、『それでもいいんだ』っていうことに気がつくと、少し楽になるんじゃないかなと。そのことを悪いことだと捉えますと、どうしても窮屈になります。人間ってどうしても、反発を感じるわけです。だから心の中で思うことには、もう少し自由があってもいい。ただしそれをみだりに表に出さないように努めて、お互いできるかぎり、礼節を尽くしながら話し合う、と。否定的な感情はこの中にはあるんですけど、それを持ちながらも、なんとか一緒にやっていこうという姿勢が、これからの社会では大事なんじゃないかなと思います」。

教会の人間と人間のつながりは、キリスト抜きには成り立たない。目の前の人が憎いなら、その人の前に、十字架につけられたキリストが立っておられることを知る必要がある。キリストが死んだのは、私たちが憎む人のためではないか。エボディアまたシンティケは、私たち自身の姿である。「主にあって、あなたの思いを、キリストひとつに集中して」。