ある医師(桜井竜生氏)がこう語っている。「私は人一倍、病気の痛みや苦しみ、死ぬことが怖くて医者になった。医者になったら、その怖さが少しは軽減するかと思ったが、残念ながらそうでもなかった。当たり前のことだが、医学部では、死んだ後のことは教えてくれない。体や病気のメカニズムと治療法は学んだけれど、その先に待つ全員に平等に訪れる死については、まったくわからないままだった。多くの知識を身につけても、死の恐怖を乗り越えることはできなかった。医師という職業柄、死体を目にする機会がたびたびある。その際には、心のどこかに恐怖の感情が湧き上がってくるのを感じる。死んだ人間は生き返らないし、死体に襲われることもないはずなのに、どうしても怖いのだ」(「なぜ、人は『死体』を怖いと感じるのか?」)。どうもお医者様は、特別な人間という先入観があるせいか、死を超越しているのではないかと思い込んでいる節がある、が、やはり人間である。「どうしても怖い」。
感覚的に「死」を不気味で怖いと思うのは、生きている人間の真っ当な感覚だろう。「死」が消滅であり、虚無に服することであり、この世から私が居なくなる、というのは、生まれてこの方、経験したことが無い、未知の領域のことだから、知らないことは「怖い」と思うのが道理である。しかし実のところ、死んだ人よりも生きている人間の方が余程怖い、というのが昨今の世相であろう。
「棕櫚の主日」受難週を迎えた。主イエスの十字架と死にしっかりと目を注ぐ時である。十字架刑というもの、それが残虐な仕打ちであることは論を俟たないが、そこに居合わせた人々からひどい罵倒の言葉、たくさんの言葉の暴力を投げつけられていることに、大きな痛みを覚える。なぜならそのひとつ一つは、みな、今もここそこで耳にする「誹謗中傷」そのものであるからだ。言葉によって、人が追い詰められ、死にまで追いやられるからである。ただ最近の言葉の暴力については、更に複雑な事情が交錯しているのである。
『褒めるな危険」なる文章を読んだ。「旧知の大学教授が学生との距離感に悩んでいる。ここ10年ほどの間に教室の空気は変わり、ハラスメントと言われるのを避けるため指導時の言葉遣いに神経を使い、善かれと思っても叱るのはもっての外という。それどころか褒めるのも危険になった。友人の間で目立つのが嫌なのか、『みんなの前で褒めないで』と言われたそうだ。褒めて伸ばすどころかハラスメントになると怖いので『腫れ物に触る』扱いで接するしかない」(/3/17付「明窓」)。言葉で生きて、その言葉でコミュニケーションして生活する人間同士が、「腫れ物に触る」ような関係で過ごさねばあならないとしたら、どうなのか。「褒めること」もまたハラスメントにつながるというのである。
今日の長い聖書個所で、主イエスの最期を描く記事の中で、とりわけ、31節「他人は救ったのに、自分は救えない、メシア、イスラエルの王」、という、この言い方が気にかかる。祭司長、律法学者たちが投げつけた「誹謗中傷」が記されているのである。十字架に釘付けにされて、苦痛にのたうち、喘ぐ者に対して、どうにもできないことを嘲笑う言葉である。確かに人間は、悲惨の極みの中にある者でも、容赦なく鞭打てる残虐さを、どこかに隠し持っているのである。マルコは、この酷い侮蔑の言葉を、律法・祭司長の口に載せているが、他の福音書では、彼らをはじめ、十字架の周りにいた者すべてがこうした暴言を投げつけたと記している。この「祭司長や律法学者」と私たちは、別物の人間だと乙に澄ましていられるだろうか。
ある思想家が、「人間は弱いというが、実は他人の不幸を、見過ごしにできるほど強いのである」(ルソー)と語った。主イエスを前にして、そこで語られる言葉は、それがたとえ「誹謗中傷」であったとしても、そこには人間の真実な姿が描き出されるのである。「主イエスについて語ることは、自分自身を語ることだ」、と言われる。信仰告白であれ、批判であれ、揶揄であれ、主イエスへの言説は、結局のところ自分自身に対する物言いなのである。心理学の世界で、「悪口」や「嫌がらせ」は、実はその人の自分自身の生き方の告白であるか、願望である、とされる。「あの人は嫌な奴だ」という時、そう嫌味を言った人は内心、「自分自身を(そのような)嫌な人間」と思っているか、あるいは、「そういう人のように自分もなりたい」、と願っているか、どちらかだというのである。
「他人は救ったのに、自分自身は救えない」、この言葉は「誹謗中傷」であることを超えて、人生というものの現実を鋭く切り取っているものではないか。つまり、「救う」などと大それたことはできないまでも、どこか人間は誰か他の者の必要や求めを見て取り、それを支え、満たそうとする生き方をする。確かに自分勝手で独りよがりのところはあるにしても、そして、おせっかいや中途半端になってしまうことはあっても、他の人のことをどこか気遣って生きているところがある。「自分が一番かわいい」とはいうものの、「自分さえよければ」と常に計算ずくで行動するのは、いささか気づまりで、何より楽しくない。エゴイズムで生きざるを得ないとは言うものの、それに凝り固まれば窮屈で、面白くないのである。やはり自分以外の人とも、共に生きる時に、生きる張り合いや喜びが生まれて来るだろう。誰かに「喜ばれる喜び」にまさる喜びはなく、そうした喜びに生かされるのが人間なのである。
ところがこと自分自身のことになると、まったく話が違ってくる。自分自身で自分を支えようとすると、いささか心もとないのである。金銭やモノで対処することはできる。しかしそれだけで解決できる事柄はたかが知れている。例えば「病気」や「認知症」になった時には、自分の力でどれ程のことができるのだろうか。「おひとりさま」の生き方が気楽でも、「誰の世話にもなりたくない」と強情を張っても、「他人の迷惑になりたくなく」ても、そうは問屋が卸さないのが、私たちの人生であろう。この「自分は救えない」とは、私たちの生の真実をそのまま映し出しているのである。誰もこういう人生の歩みに、無縁な人はいない。実に「自分は救えない」のである。
マルコ福音書は、主イエスの地上での生涯の終わりを、徹底して「無力なただの人」として描き出す。それが極まるのは「エロイ、エロイ、ラマ サバクタニ」「わが神、わが神,何ぞわれを見捨てたまいしや」の絶句においてである。「自分を救えない」、人々に見捨てられて、神にも見捨てられて死んで行くひとりの人、として語り尽くそうとする。ここまで赤裸々に描く必要があるのか、とも悩ましいほどである。しかし、この姿こそ、死を迎え、死に捉えられるすべての人間の、ありのままの姿ではないのか。「医者になったら、その怖さが少しは軽減するかと思ったが、残念ながらそうでもなかった」。人は自分で自分を救えないのである。
主イエスの生涯の始まりに、救い主は「インマヌエル、神共にいます」方である、と御使いは告げる。それがいかなるものかが、今こそ十字架において明らかにされるのである。死に対して成すすべなく無力で、自らを救うことができず、ただ十字架に打ち付けられて身動きひとつかなわない。誰も助けには来ない、天からの声は聴こえず、神はまたまったく沈黙しているように見える。そういう中での最後である。主イエスは、徹底的に、私たちと一つである、インマヌエル、私たちと共なる方なのであると。しかしインマヌエルはもう一つの側面を持つ
この年度も間もなく終わりとなる。この年も教会の懐かしい何人かを天にお送りした。不思議に天に旅立つその直前にお会いすることができ、顔と顔を合わせて言葉を交わすことができて幸いであった。皆さん、最期の時には、ご自分の愛する人たち、懐かしい人たちに一目会いたいと願っている。決して自身のことを見つめているのではなくて、やがて来るべきものの方に目を向けようとされるのである。
「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのか」と悲痛な叫びを上げて、主イエスは息絶えられた。絶望の叫びであるが、この死の苦しみの中で、主イエスは何に目を向けているか、自分を苦しめ、十字架に付けた人々でなく、ましてや自分自身のことでもなく、ただただ「わたしの神」に向かって、叫ぶのである。「自分自身を救うことができない」その最期の時にも、主イエスは神に向かわれたのである。インマヌエル、神と共に、神と一つであられた。そして私たちひとりひとりもまた、その時には、神に向かうのである。自分の生命を抱き留めてくださる生命の源に向かって、顔を向け、目を注ぎ、歩んで行くのである。主イエスの十字架、それは私たちの最期の行くべきところなのである。