「エスニック・ジョーク」と呼ばれる小咄がある。それぞれの国民性を評する笑い話なのだが、例えばこんな話がある。世界各国の人が乗った船が沈没しかかっている。そこで、船長は各国の乗客を海に飛び込ませようとして言う、アメリカ人に対して「飛び込めばあなたはヒーローですよ」、ロシア人に対して「海にウォッカの瓶が流れてますよ」、イタリア人に対して「飛び込めば女性にもてますよ」、フランス人に対して「絶対に飛び込まないでください」、イギリス人に対して「飛び込めばあなたは紳士です」、ドイツ人に対して「海に飛び込むのは規則です」、では日本人に対しては、「みなさん飛び込んでいます」、あるは「本社からの指示です」。
それぞれ独自の国民性があり、生活習慣や気質に違いがあるとはいうものの、こんな話も耳にした。「世界を旅したひとに言わせると、日本人と国民性が近いのはイラン人らしい。人情、気がね、誇り、おもてなし…どれも似ている、と。そのせいか日本のドラマや映画の人気は高い。なかでもNHK連続テレビ小説『おしん』は土曜夜9時から放送が始まると、街中からひとが消えた。(かつてこの国でもドラマが始まると銭湯から客が消えた、という社会現象があった)。日本に良質なイラン映画を紹介してきたショーレ・ゴルパリアンさんはそのころ交通事故に遭った。調べにきた警察官が時計を見てひと言。『あ、「おしん」が始まる。いったん家に帰ってから10時に戻ろう』(ドラマを見てから事故処理に来るから)」(4月3日付「有明抄」)。但し、仕事よりも人気ドラマの続きの方を優先させる、私たちにはここまでの悠長さはあるだろうか(そこまでおもしろいドラマも作られていないのかもしれないが)。
エスニック・ジョークは、個性を無視した、極めてステレオ・タイプな偏狭な決めつけとも言えるのだが、「さもありなん」、と思わせる所が、肝である。「船が沈没する」という切羽詰まった状況での決断、その時にどうするか。この小咄は、切羽詰まった決断も、自分自身の意思ではなく、無意識(深層心理)のうちに誰か、何者かの指示や命令によって、暗黙のうちに意志が方向付けられ、それについつい従ってしまう、というのが人間の思考の性ということかもしれない。
使徒言行録から話をする。出来事の発端は17節「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」。神殿の境内で人々に大胆に語り、主イエスを証し、その名によって癒しのわざを行っていた彼らは、神殿当局に捕らえられ投獄されてしまう、目障りだったということか。「ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し」、弟子たちはまたもや性懲りもなく神殿で語り出した、というのである。この有様を見て、神殿の警備兵たちは言う「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした」。この書き方は、直ぐにある出来事を連想させる、そう、主イエスの復活の場面と同じなのである。遺体が納められた墓は重い石で蓋がされ、夜中、番兵が見張っていたという。「中にはだれもいませんでした」。彼らの行動は、ナザレのイエスのよみがえりの力から来ている。
この弟子たちの振る舞い、「恐れずに、大胆に」、あるいは「性懲りもなく」、主イエスの十字架と復活以前の彼らの姿を知っている私たちもまた、神殿の警備兵と同じくあっけにとられる思いになる。遠藤周作がつくづく語ったように、「彼らは弱虫だったが、強虫になったのだ」。彼らを強くしているものが何なのか、ルカはこの文章の裏側で語ろうとしている。最初の教会の、いちばん最初の信仰告白とされる言葉、「神はイエスを復活させられた」、この復活の生命、よみがえりの力が、彼らを突き動かしているのであると。だから段落の締めの言葉、賢者ガマリエルが語ったとされる台詞、「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」。
少し先を急ぎ過ぎた。強虫になった弟子たち(相変わらず虫のような非力な者たちだが)、彼らが発した啖呵とも言える、勇ましい言葉をどう聞くか。29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。主イエスの受難を前にして、散り散りに逃げてしまった人たちが、今、このように主張するのである。無学なただの人たちが語る、「わたしたちは神に従う」という決意、信念の言葉、これを聞いてどう感じるか。恥じるだろうか、人の顔色ばかり窺って汲々としている自分がいる、ちっぽけな立場や地位を誇りにして、対面を気にして、火の粉が降りかかって来るのを懸命に振り払おうとして、せこせことその場限りに何とか誤魔化し、「わたしはここに立つ」と言えるような確固とした信念も持たず、右左にふらふらしている自分がいる、実に情けないと感じるか。
「神に従う」、これを聞いた大祭司たちは何を思ったろうか。反省させられただろうか、28節「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」、お前たちは、「神に従うか、人に従うか」と問うが、自分たちだっていつも神に従って振舞っている。かのナザレの男を殺したのは、実に神の命(めい)に従ったまでだ。私たちは、自分の考えや行動を正当化しようとする時には、自分を超えるもの、即ち「神」を出しに、後ろ盾にするのである。テロを行う者は、神の大義を口にし、政治家は国益を語り、役人は「公のため」と答え、親は子どもに「お前のため」だという。上から下まで、「神のため」「人のため」というけれども、」実は同じこと、ちっぽけな、根拠の薄弱な、自分のことしか考えてない「わたし」を隠して、自分の正当性を相手に認めさせるための言い訳が、お前が従うのはどちらか、「神か、人か」という問いなのである。
「悪の凡庸さ」という考え方がある。普通「悪」というと「極悪非道」という言い方のように、とても血の通った人間の行為とは思えない、鬼や悪魔のような残忍な所業で、全く非情で残虐な事件を起こすようなイメージを持つが、「悪」は決して自分とかけ離れたところで起きる、途方もない事柄ではなくて、非常に平凡で、ありきたりの中に生起する出来事を示す理解である。ハンナ・アーレントというひとりのユダヤ人によって主張された考え方である。「ハンナ・アーレントは、ナチスの強制収容所から脱出し米国に亡命した経験を持ち、『全体主義の起源』など多くの著作で知られるドイツ系ユダヤ人政治哲学者である。当時、彼女のユニークかつ切れ味鋭い理論や言説は社会に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こした。二〇一三年公開の映画『ハンナ・アーレント』は、彼女の最大の問題作である『エルサレムのアイヒマン』の取材や執筆を巡る実話に基づいたドラマである。彼女は、ナチスのユダヤ人移送の最高責任者であったアドルフ・アイヒマンの裁判を取材するためにイスラエルに渡る。ジェノサイド(大量虐殺)の中心的役割を果たしたアイヒマンに対するユダヤ人の怒りは計り知れず、当然のように絞首刑に処せられるが、アーレントは裁判(を傍聴して)の一連の過程に大きな違和感を覚える。彼女の取材記は、多くのユダヤ人同胞の期待に反したものとなり、そのことで批判に晒[さら]されることになるが、その論点の一つが、彼女が示した「悪の凡庸さ」という概念である。ユダヤ人にとって悪逆非道な“悪魔”であるはず(でなければならない)のアイヒマンを、彼女は、上からの命令に忠実に従う官僚組織の歯車となった平凡な小役人、つまり〈思考停止の〉人間だ、と断じた」(福迫昌之「悪の凡庸さ」)のである。
「自分はただ言われたことに従ったまでだ」、「その時代の精神、時流の圧力には逆らえなかった」、「世の中の風潮には抗えない」、今もいろいろ耳にするような言葉である。ナチスのジェノサイドに中心的な役割、大量虐殺のために次から次へと斬新で多彩なアイデアをひねり出し男の素顔は、凡庸な、どこにでもいるような、平凡な、私たちと何ら変わらない一人の人間であった、と断じたのである。大きな批判が起って当然でもあるが、「悪の凡庸さ」をわが身のこととして受け止められるだろうか。「悪の凡庸さ」は、みんながそうだからという情状酌量の免罪符ではなく、アーレントの遺した警告である。悪は特定の狂信者や極悪人によってではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる平凡な一般人によって引き起こされる、(だから)悪は遍在している。
弟子たちの問う「神か、人か」の問いには、もちろん、そのような側面が含まれていることは否めないだろう。自分の正しさを全く問題にしないで、すべて他人事で責任回避する訳には行かないだろう。しかし、この弟子たちの「神に従う」は。ひとつの点だけ、他と大きく異なっている具体性がある。これを見逃すことはできない。ただ一点、ただ一つの出来事に目を向け、目を凝らし、そこに集中しようとしているのである。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」。あのナザレのイエスの十字架の歩み、十字架の出来事を通して、神が何を語られ、何をなされたのか、これを見ることなしに、私たちの有り様を計る根拠など、本来どこにもないのである。「誰か偉い人」「権威ある人」「皆の選んだ代表」、その者の言葉や命令に従った、だから正しい、あるいは「この世界にどう生きて、歴史の中でどう語り、そこにどう手を伸ばされたかを欠いた、具体性のない抽象的な観念である「神」を盾にして、そのみ旨を行なう、それが大義だ、だから正しいと言っても、所詮、自分を偽り、覆い隠す看板を立てているだけである。
私たちは、人としてこの世に生まれて、私たちの間に生きられ、私たちと共に飲み食いし、語り、癒してくださった、あの方、主イエスの他、従う方を持たない。その方は私たちに、指図や命令ではなく、後ろ姿で、苦しみの十字架に向かう後ろ姿で、語ってくださった。「わたしについて来たいと思う者は、日々自分の十字架を取り、わたしに従いなさい」、私たちはこの主イエスに従うのである。
