「あの人をどう思うのか」ヨハネによる福音書9章13~41節

寒さ暖かさが、交互に行きつ戻りつする「三寒四温」と呼び慣わされる時節、寒暖が交互に訪れ、唐突に入れ替わり立ち替わり過ぎてゆく日々がしばらく続く。このややこしい時期に、ちょうど巡り来るのが「受難節」であるが、この時期の古くからの呼名として知られる「レント」には「断食」という意味とは別に、「(日が)長くなる」「ゆっくり進む」という意味をも併せ持つ用語だったと説明されている。この期間を過ごす人々の心をも、映し出していると言えないだろうか。

こういう新聞記事を読んだ。「荻窪駅近くの立ち食いそば屋さんでこんな場面を目撃したと知人が教えてくれた。寒い夜だったらしい。若い女性が1人でお店に入ってきた。こういうお店を利用する方なら、よくご存じだろう。『かけ』の食券を差し出すと、お店の人から『そばですか、うどんですか』と聞かれる。知人によるとこの女性、『どっちですかねえ』『どっちがいいですか』と店のおじさんに尋ね返したそうだ。そばならそば、うどんならうどんが食べたいからお店に入ってくるのが普通で、確かにこういう『質問』はあまり聞いたことがない。『まったく、自分の食べたいものさえ、分からないんですかねえ』。40代の知人はこの話に続けて、最近の若者の優柔不断ぶりを嘆くわけだが、話を聞いていて、この女性の気持ちがなんとなく分かる気がしてくる」(「筆洗」2月20日付)。

「この女性の気持ちが何となく分かる」と記者はいうのだが、「どう分かった」、というのだろうか、皆さんはどう想像するだろうか。以前、大阪の西成区のあいりん地区、通称「釜ヶ崎」で宣教師として働かれていたストローム氏は、初めての人にも温かく接する包容力の大きな方だったが、もてなしの「コーヒー、紅茶、緑茶」等、自分の飲みたいものをすぐに、はっきりと言えない人に、きっぱりとこう示された。「小さなことにはっきりと決断できなければ、人生の重大事にきちんと決断できないよ!」という具合である。ご自身の歩み、人生経験と深くつながっているようだ。

今日の聖書の個所は、ヨハネ福音書9章13節以下の比較的長い文脈のひとくだりである。長々の朗読に、司式者にはご苦労をお掛けした。なぜ事の発端を飛ばして、中途から読み始めたのか、と訝しく感じられた方もいるだろう。この章はすべて、「目の見えない人の癒し」の物語に費やされており、構成は三部、三幕仕立てである。1~7節には「主イエスとその一行が通りすがりの盲人と出会い、弟子たちと主イエスの問答、そして癒し」が語られる。次いで8~34節、物語の大部分は、癒された盲人の「その後」の振る舞い、彼の言動が綴られる。そして35~41節には、事の顛末が記されて、物語は閉じられる。非常にかっちりしたドラマのように構成されている。5章の「ベトザタでの癒しの物語」が、さらに拡張されてここで再び語り直されているという塩梅でもある。「さらに拡張」とは何かといえば、主イエスの言われた「良くなりたいか、治ってどうするのか」という問いが、もう一度ここで問われて、癒された人の「その後」が、多くの言葉を費やされて、描き出されるのである。「癒し」とは何か、「癒される」ということはどういうことかが、中心に据えられて語られる、まことに主イエスに癒された者は、どこに歩んでいくのか、という問いへの応答である。

13節から34節まで、結構長いくだりだが、記述の仕方の特徴は、本来なら主人公であるべき主イエスが、一度も登場せず脇役だけでドラマが進行することである。しかも主イエスが口にした言葉すらも出てこないのである。福音書において、これだけ長い文脈で、主イエスが全く出て来ないのは珍しいことだと言えるだろう。ここには、主イエスのなさったひとつ出来事、「病の癒し」を発端にして、そもそもは、通りすがり,行きずりのひとりの人に、主イエスが目を留められたことから始まる。そして生まれつき目の見えなかったその人が、見えるようになった、この出来事をめぐって、癒された人と、彼を取り巻く人々、親までが巻き込まれて、主イエスが誰なのか、どういう人だと思うのか、喧々諤々に論じ合い、彼らの間に意見の食い違い、対立や論争が生じる、という場面展開である。

目が見えるようになって、以前の彼のことをよく知る人が、彼を見て口々に言った「あの物乞いのようだ」「いや別人だ」「似ているだけだ」、誰もが訝しく感じ、何となく怪しんでいる。あの目の見えなかった彼のようだが、どうも今までと違う。「病気」が治癒する、とは単に元通りの状態、健康な身体に戻る、ということではない。「治癒」はさまざまな変化が、身体を始め、いろいろなところに生じて来る。身体面では、体重が減る、筋肉が落ちる、食べ物、飲み物の好みが変わる、今までできたことができなくなる。先日、「がん哲学外来カフェ」に来られた方が、「骨髄移植をしたら血液型が変わった」と言われていた。人間に変化を与えるのは病気ばかりではないが、病気、そしてその癒しとは、元通りの自分になることでは決してない、病は良くも悪くも人生の大きな転機、曲がり角であろう。

この人の両親も思いは同じである。「なぜ息子がそうなったのか、私たちには分からない。あれはもう大人だから、本人に聞いてくれ。自分のことは自分で話すだろう」。ユダヤ人たちを恐れてこう言ったとヨハネはコメントしているが、これはいつまでも子どもだと思っていたわが子が、いつのまにか成長し、すでに自分の世界を歩き始めていることへの、親の実直な感慨が込められているように思う。子どもの変化に驚きつつ、自分たちとの間の距離を思い、寂しさをも感じる「告白」でもあろう。ともあれ人は主イエスと出会って、その出会いによって、以前のその人と、どこかしら変わる、変えられるのである。それがどういうことなのか他人はもちろん、親しい家族でさえも、どんな事態なのか分からない、しかし根源的に変わるということが起こる。

この目が見えなかった男の変化とは、端的には何を指すのか。これは単に、見えなかった者が見えるようになった、という身体的な変化だけを示唆しているのではなかろう。「目が見えるようになる」とは、何を指し示しているのか。執拗に非難するファリサイ派の人々に対して、主イエスは辛辣に語っている。40節以下「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、『我々も見えないということか』と言った。イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている』。「見えない」ならば、その嘆きや悲しみ、つらさ不甲斐なさ、失望そういった嘆きによって、神に真っすぐに向かうこともできるだろう。しかし「見える」「分かっている」「世間では通用しない」等と言い張ることで、私たちは自分の力に固執し、神の恵みのみ手を振り払ってしまうことになる。

この人の癒し、治癒とは何か。それがこの物語の中心に語られている。24節「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」とファリサイ人から問われて彼は言う 25節「彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』」、神に真っすぐに向かう、真っすぐに応答することができる、ということである。「やましいことがあると目を反らす」というではないか、後ろめたいことがあれば、人の目を気にする。しかし、人は騙せても、決してだますことのできない方がおられる。私たちは、神の目、そのまなざしの前にきちんと立つことが出来るか。いろいろ情けないもの、隠しておきたいもの、やばいもの、つまり罪を抱えながら、み前に立つのである。そんな恐れ多いことに誰が耐えられるか。

この癒された人は無理解で心無い人々によって無理やりに、強いられて、そういう場に立たされたのである。そしてこの人は人の前ではなく、大胆に、神の前に語ったのである。25節「目の見えなかったわたしが、今は見える」。彼の変化、癒し、こころがまさにこのひと言に込められている。主イエスのことは、よく分からない。でもあのお方が、他ならぬこの私に目を留め、このわたしと出会って下さり、わたしを見えるようにして下さった。

最初に紹介したコラムの続きをもう少し。「勝手な想像をすれば、この人が求めていたのはそばでもうどんでもなかったかもしれない。ひょっとしてほしかったのは誰かとの『会話』ではなかったか。寒い夜に1人。ちょっと寂しくなってしまったのだろう。誰かと会話することで心と体を少し温めたい。そういう『寒い夜』は誰にもある。知人につい確認する。女性の『質問』にお店の人はなんと言って答えたか。『店の人はそばがいいよって』。突き放すような『自分で決めて』や『知りませんよ』ではなかったと聞いてホッとする。」

「この人が求めていたのは、そばでもうどんでもなかったのかもしれない」。「寒い夜にもっと必要なものは何か」、こんなこころでもって世界を眺めることができる目を持ちたいものだ。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」、この物語の書き出しである。そして「わたしがこの世に来たのは、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」との主の言葉によって、物語は閉じられる。主イエスとの出会いが、「見かけられた」から始まって、「見えるようになる」に進展して行くのである。たまたまの「通りすがり」の出来事にもまた、主イエスの目、まなざしが注がれている。この目に見出され、癒され、私もまた歩み出すのである