祈祷会・聖書の学び フィレモンへの手紙1~25節

「来た、見た,勝った」“Veni, vidi, vici”という世によく知られた言葉は、共和政ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、紀元前47年のゼラの戦いでの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた手紙に由来すると言われる。この戦闘は4時間程でカエサルが指揮するローマ軍の勝利に終わったとされるが、迅速で的確に戦力や戦術を駆使した、さらにはこの類まれなる天才の資質、行動力すらをも彷彿とさせるような息づかいを、この短い言葉が醸し出している。

またこの国で「短い手紙」の傑作と言われるのは、「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」で、徳川家康の家臣、本多作左衛門重次が戦場から妻に送ったと伝えられる手紙である。「くれぐれも火の元に気をつけ、幼子をしっかりと養育し、戦に欠かせぬ馬は丈夫に」、という内容である。無駄なく、簡潔に要点のみを記した名文の手本、それでいて素朴な語り口で愛情をにじませている、などと評されるのである。

フィレモン書は、パウロ書簡の中で最も短い文書であり、しかも彼の真筆と考えられている。当時の便せんにして2枚くらいの勘定になるだろうか、しかし他の手紙に比して異彩を放っていると言える。なぜなら他の手紙は、教会に宛てられたいわば公的な文書であるから、礼拝で朗読されることが前提にされており、神学的な議論を核とした説教のような形式を取っている。しかしフィレモンへの手紙は、いわゆる「私信」であり、しかもフィレモンというひとりの人物に書き送られたものである。つまりパウロの人となりが具体的に表現され、その人間関係の有様が如実に知れる情報が盛られているので、読めば読むほど、発見の多い手紙である。広い意味ではパウロの人間関係私論とも言える、しかも極めて実際的な考え方を学ぶことができるだろう。例えば8節、そして14節に端的に表されている。「すべてが愛において、自発的に」、ということである。教会における人間関係論の基礎は、まさにこの考え方に尽きるだろうが、ではこれを「実践的」に適用すると、どういう事態になるのか、この短い手紙は、正にそれを今日の私たちに伝えているのである。

パウロは、若干回りくどく、慎重に言葉を選んでいるが、決して控えめではなく強硬とも言える語り口で、設立に尽力した教会の信徒で、教会を支える有力者であったろうフィレモンに対して要求するのである。要は逃亡奴隷オネシモのしでかした不祥事を許すこと、もうひとつは、そのオネシモを自分の活動の働き手、助け手として、こちらに送って欲しいと、結構ずうずうしい依頼をしている訳である。20節で「あなたから喜びを与えられたい」という言葉、この「喜び」という単語は「オナイメーン」であり、「オネシモ」と言う名と同根語なのである。つまりここでも言葉遊びで、暗にオネシモをいただきたい、と主張しているのである。勿論、フィレモンは奴隷を持つことができる身分であるから、オネシモの不祥事については、おそらく金銭的な事柄については、師パウロに免じて太っ腹なところを見せるであろう。しかしパウロの下にずっとフィレモン家からの逃亡奴隷であるオネシモを派遣することに賛同するか、は微妙なところである。なぜならそれはフィレモン家の名誉に関わることだからである。逃亡したとなると、世間は奴隷の身勝手な振る舞いをとがめるにとどまらず、主人のフィレモンへの監督責任能力をも云々するであろう。それでこの手紙が書かれたという次第である。

そのパウロの殺し文句が「それはわたしの借りに」である。パウロのパウロらしいところは、一言多いところである。「言わぬが花」なのに、つい口走ってしまう。「あなたがあなた自身をわたしに負っていることは、よいとしましょう」。「ま、お前さんが、どんだけわたしの世話になったかとかいうのは、この際、黙っておくけれども」、とはっきり言っているのである。これはある意味、脅迫に近い言い草である。「損害、負債を身に負っている」と言う言葉は、これはパウロが、フィレモンが、誰かに負債がある、借りが有る、という単に金銭的問題を意図しているではない。彼はここで、極めて宗教的な見地に立って、人間の損害や負債の問題を議論しているのである。即ち、このパウロも、あなたフィレモンも、神のみ前にはどうなのか、「罪」を負って生きているわたし、あなたではないか、そしてわたしのために、主イエスが何をしてくださったか、を思い出せ、と暗に揺さぶりをかけているのである。

こう言う文章がある。「人を理解するとは、どういうことなのでしょう。その人の過去を熟知し、現在を明確に把握し、将来を的確に見通しえるほどの正確さで相手を知ることでしょうか。そういうことでもありましょう。しかし、そのような正確さで関心を持たれても、決して理解されたと思うかといえば、もしそこに、誤りをゆるし、悲しみを慰めてくれるようなものがなければ、却って無理解さを味わうのではないでしょうか」(藤木正三「神の風景」)。

「理解」や「認める」とは、「誤りを許し、悲しみを慰めてくれるようなものがある」ことだと語られる。さらに許しと慰めこそ、理解だと言う。これはイエス・キリストのみ業そのものである。わたしたちの前に、生活、人生、人間関係の前に、イエスの十字架が立っている。十字架に掛かることによって、イエスはわたしたちの誤りを許してくださった、悲しみを慰めてくださった。そのイエスの許しと慰めの上に、教会は建てられ、今その上で礼拝を行い、み言葉を聴くのである。わたしたちは自分自身から、自分の誰かの誤りを許すことが出来ない。悲しみを慰めることは出来ない。ただイエスのしてくださったこと、おこなってくださることに頼るしかない。そこからわたしたちがひとつになり、理解する余地が生まれてくるだろう。神に許された人は、許す人、神に悲しみを知ってもらった人は、慰める人になるだろう。そういうひとつを与えられたいと願う。

フィレモンへの手紙の価値は、パウロという使徒と、教会の具体的なひとりの人間との、直な関係が、詳らかにされているところにある。二人の間には、かなりの親密さが伺えるが、そこでも人間が直接つながって、信頼し、協力し、心を通わせている、という義理人情ではないことに留意したい。あらゆる人間関係において、主イエスが間に立っておられ、そして個々の人間たちを繋いでいるのである。そこより外に、まことの関係は生じない、これは現在に生きる私たちにとっても、心を巡らすべきことではあるまいか。