祈祷会・聖書の学び テモテへの手紙二2章14~26節

こういう歌がある。「あがいて もがいて 一日がゆく/わめいて ほざいて 一日がゆく/さからい はむかい 一日がゆく/当たって 砕けて 一日がゆく/いい加減に悟ればどうかと 低く招く誘い 蹴れば/掌は返る 敵(かたき)は増える/それでこうして/やさしい人をおろおろと探しているんです/野望はあるか 義はあるか/情(なさけ)はあるか 恥はあるか/あいにく本日、未熟者 わたくし本日、未熟者」(中島みゆき『本日、未熟者』)

「おとなしい」という言葉について、その意味を調べると、「1.年長者らしい思慮、分別がある。2.成人している。大人びている。3.従順、温和である。穏やかである。落ち着いている。4.着物の柄などが地味で落ち着いている」等の意味が載せられている(『日本国語大辞典』)。また『古語大辞典』(小学館)によれば、「穏やかだ、すなおだ、温順だ」という意味が記され、「これは中世以後に現れて主流となった」と解説されている。「おとなしい(大人しい)」とは、現在は「物静かである」とか、「控えめである」とか、「黙っている」、そんなイメージの言葉として使われているが、語源は「大人」を形容詞化したもので、「大人びている」、「成熟している」様子を表す言葉のようである。もっとさかのぼると「音無」であり、つまり子どものように騒がず、静かで、落ち着いているという意味が含まれているらしい。

確かに世間は、「ヒト」という生き物に対して、辞書のように「大人(ら)しい」と定義される存在になることを期待するであろう。しかしかの歌の「未熟者」は、どこか私たちの心を共鳴させる不思議な魅力を持っている。確かにいつまでも「未熟者」であり続けることはできない、あるいはしてはならないのだろうが、それをまったく喪失してしまったら、「ひとりの人間」としての、「わたしらしさ」はどうなるのか、そんなものは青臭く、はやく「卒業」すべき人生の否定材料でしかないのだろうか。

15節「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」。教会に仕える「牧者」、教役者について、このように勧められている。「適格者」という訳語が用いられていることに、目が留まる。「適格」という言葉は、元来、法曹用語であり、「法律などで定められた資格に適っていること」という意味である。現在の日本基督教団ならば、『教憲』第9条に明記されているように「本教団の教師は、神に召され正当な手続きを経て献身した者とする」という条項に妥当することが、「適格者」ということになろう。

「適格者と認められて」と訳される文章であるが、直訳すると「しっかりした証拠によって自身を認められる」という意味になる。ここで注目されるのは、「証拠」あるいは「認証」と訳せる用語を、どのように理解すべきか、ということである。最初の主イエスの弟子たち、いわゆる十二使徒たちは、福音書によれば、皆、主ご自身が声を掛けられ、招かれて弟子とされた、即ち「主の御声」こそが、確かな「証拠」であった、ということができるだろう。それではパウロの場合はどうか、熱心なユダヤ教徒として迫害者であった彼は、ダマスコ途上で復活の主イエスにお会いし、呼びかけられ召命を受け、使徒になったとされる。主のみ声は、当人だけに届いたのであり、そういう場合はどうなのか、初代教会でも彼の「使徒性」について、大きな議論があったことが、彼の記した手紙の文面や使徒言行録の物語に伝えられている。それはパウロのみならず、一二使徒を継承する歴代の教会に仕える牧者の、「資格」についての議論にも発展していったのである。

「召命」というものは、確かに神(キリスト)とその人の間だけの出来事であろう。余人の介入する余地はないといえるが、それでも教会に集められた人々が、「この人を私たちの教師に立てたい」という願いや希望を表明する場合も多かったろう。そういう状況の下に、現実的な対応として牧者としてふさわしい「資格」や「証拠」という議論が生じて来たことも、十分理解できる。

「皆が確認し了解できる」、ということを目安とするなら、「(難しい?)試験に及第した」とか「実際に伝道活動を行い、開拓教会を生み出した」とか、「授洗者の数」等が、召命の「資格」や「証拠」と見なすこともできるだろう。それではそもそも「召命」とは、どういうものとして理解されるのだろうか。

今日の個所では、24節以下で「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません」と具体的な教会教師への心得が記されているが、これは期待される「資質」のような指針であって、「証拠」そのものとは言えないであろう。もちろんここには、こうした資質をすべての教師が有して、スキルを磨いて教会に仕えることができれば良いのだが、容易にそこから逸脱してゆく人間の有様が、語られているのは言うまでもない。前節において、「言葉をあげつらわないように」、「俗悪な無駄話」、「真理の道を踏み外し」という具合に、人物批判が連ねられているように、たとえ教師であっても、ともすればそのような逸脱を犯すことが意識されているのである。但し、「召命」とは根源的に、神のなさるみわざであって、そのみこころの上に成り立つものであることを、忘れてはならないだろう。

こういう話がある。ある教会で新しい牧師の招聘が決議され、教区議長の下に願いが出された。教区議長は、「ふさわしい」と思われる教師を幾人も紹介したが、どの候補者も不適格として断りの返事が来た。教会員の高望みを感じた議長は、このような教師を推薦したという。「実はもう一人、候補者がいるのですが。この牧者は今までいくつかの教会を設立してきましたが、長く一つの教会に留まることはありませんでした。議論に巧みで弁舌に秀で、文筆にも優れていますが、しばしば病気で離職することや、訴えられ捕らえられることもありました」。すると教会から返事が来た「健康に不安があり、もめ事を起こし、一つの所でじっくりと腰を据える忍耐力のないような教師は、お断りします」。議長の友人が尋ねた「いったい誰を紹介したのですか?」。議長はため息をつきながら言った「その牧師とは、聖パウロ」。神の「召命」は、人間の思いを超えて働かれるのである。但し、召命とは、そもそもそれは、牧師だけの事柄ではないことを、信仰者は深く知るべきであろう。誰でも人は皆、神から何らかの召命を受けて、この世に誕生し、人生の道を与えられ、さらにその生涯すべてをもって、主の栄光を証しするのである。