「言われなくてもやる、言われてもやらない」これは私の先輩牧師で、阪神淡路の震災の時に、震災の現場に集まって来たボランティアたちのまとめ役をされた方の言葉である素よりボランティアは「必要(ニード)に応えて」という精神だが、何でもかんでもはいそうですかとばかり、要求に応じることではない、というのである。
私のかつての同僚が教団新報にこのような記事を寄せていた。「私たちは、瓦礫の撤去や全壊・半壊した家の掃除に行ったつもりだった。しかし与えられた仕事は『能登キリコ祭り』の準備と仮設住宅での傾聴ボランティアだった。正直な思いは拍子抜け。もっとしんどいことをしにきたのに、高校生だから、女子生徒たちだから、しんどい仕事が回ってこない。無力さを感じるばかりだった。しかし同時に感じたことは、高校生だから若いからできることがあるということだ。仮設住宅で出会ったおばあさんは『若い人の姿は最強』、『若い人を見るとね、捨てられてないって思えるんだ。関西から来てくれてありがとう』と言ってくださった。被災地の方々は、大人には不満をぶつけることが多いそうだが、高校生には優しい。実際、役所でも若い人が窓口対応するとクレームがあまり出ないそうだ」(教団新報5041号)。
「しんどい仕事が回って来ない、無力さを感じるばかり」、人間、楽にできるからうれしいよかったというものでもない。確かに自分の予想や願いとは異なる「求め」を受けて、じたばたしたり立ち往生したり、現場に生きるとは、その時、その場になり切ることが必要となって来る、それで無力感も感じざるを得ないのだが。要は、前もって「分かっていない」のである。その時になって分かることは、数多い。
今日の聖書個所もまた、典型的にマルコらしい描き方がされている。こう表題が付されている。「イエス、三度目の死と復活を予告する」。またもや「十字架と復活」が繰り返され語られる。マルティン・ケーラーは、マルコ福音書を「長い序文付きの受難物語」とその特徴を指摘するが、まさに著者の意図を上手く言い表している。ただ三度目の受難予告は、これまで二回の予告と比較して、やはり詳細なものとなっている。33節以下「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」。ある学者は「イエスのこの時の態度と気勢は全く特別であった。平日は弟子たちと語りながら群を為して進み給うたのにこの時だけは目をエルサレムに向けて突撃し給う姿勢であった。おそらくその目は血走っていたであろう」と解説するが、ここで「イエスは先頭に立って進んで行かれ」という文言と、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」という章句を並べることで、マルコは、最初の教会が、十字架について語ることを困惑し、逡巡している有様と、主イエスの受難が、「運が悪い」とか「事故」とかいう偶然の所為ではなく、主ご自身の深いみこころによるものだと、鋭く主張しているのである。十字架を語らないなら、教会は、キリスト者は、主イエスと何の関係もなくなる、というのである。
ところがここでも、「十字架」と足並みそろえて「無理解」が語られるのである。しかも民衆やファリサイ派の人々、そして律法学者たちではなく、最も主のお側近くにいた12弟子の無理解が語られるのである。ヤコブとヨハネの兄弟、シモン・ペトロとアンデレに次いで召された、いわば二番弟子とも言える彼らが、主イエスの前に進み出て、主に願った、というのである。35節「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』 イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると」。「何をして欲しいのか」という問いは、主イエスがみもとにやってきた人に尋ねるいわば常套句であった、と思われる。
「ニード(必要)を尋ねる」というのは、助け合い、支え合う宿命の人間、そういう者どうしの合言葉と言えるかもしれない。先ほどのボランティアの話題でも、自分の考えだけで事を推し進めるならば、「有難迷惑、余計なお世話」となってしまうだろう。しかし主イエスのこの問いは「ニードに応える」ためというよりは、「願い」の中に現れている、その人の真実あるいは本音を受け止めるためであろう。ひとりの人の願いの中味、その切実を知るならば、その人がどういう人間であるのか、はっきりつぶさに知ることになろう。
骨折して手術の後、間もなく傷は治癒したが、手指に麻痺が残っているのでリハビリが始まった。今もまだ続いている。最初のカウンセリングで作業療法士の方に尋ねられる、「どうなりたいですか」。やはり願いの内容によって、リハビリの方法が異なるのである。「ギターをまた弾けるように」と答えると、それに即しての回復訓練が始まるという次第。一カ月余り釘で固定し、さらにギプスを付けて固まっている指の骨を無理やり動かして、なめらかに動くようにする。「痛いですよ」と言われ、その通り痛いのだが、「目標」をはっきり口にしたもので、なかなか「痛いから止めます」とは言えない。願いを口にするとは、当の相手に自分の内側を明らかすることになり、大げさに言えば後に引けなくなる。そのくらいでないと誠意は伝わらない。
「何をして欲しいのか」と主に問われて、37節「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』」。「世の終わりの、神の至福の時が来れば、あなたは輝かしい栄光の座におつきになるのでしょう。その時、私たち二人を、一人はあなたのすぐ右の座に、もう一人はすぐ左の座に座れるようにしてください」。簡単に言えば、「右大臣、左大臣」つまり「ナンバーツー」にしてください、と言うのである。彼らはほんのちょっと遅れて、声を掛けられた二番弟子だったから、最初に主に呼ばれたペトロが妬ましかったのかもしれない。「やはりペトロさんは、さすが一番弟子だけあって、一味違いますな」と皆から持ち上げられるのを、内心、うらやんでいたのだろうか。
彼らの手前勝手で頓珍漢な願い、滑稽にも思える要求に対して、主イエスの対応に感心させられる。普通ならば、身の程弁えない、わがままな願いだから、言下に拒絶、あるいは叱責されるのが落ちであろう。しかし主は、彼らの一方的な思い込みを、ただ否定し批判するのではなく、忍耐深く彼らに語り続ける主の姿勢に打たれると言ってもいい。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。正しいか間違っているか、真面目か不真面目か、真実か虚偽か、崇高か低俗か、なのではない。人間の問題は、程度の違いこそあれ、善悪はっきりとどちらかに区分けできるものではない。彼らの願いに、主は「正しい」とか「間違っている」という評価をしていない。「何を願っているか、分かっていない」と言われる。この言葉は、主が十字架に釘づけられるときにも語られる言葉である。「彼らは何をしているのか分かっていないのです」。ヤコブとヨハネだけではない、「ほかの十人の者は、これを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」という。「分かっていない」のはヤコブとヨハネだけではない。弟子たちの皆も、「分かっていない」のである。そしてマルコは、この12人の滑稽な有様、つまり十字架を前にしても、誰が偉いか、誰が上に立つのか、だれが一番なのか、という権力争いを語ることで、形を変えて、初代教会の人々の間でも、こうした一番争いが生じているのを、暗に告発しているのである。
最初に紹介したボランティアの話の続き、「2年目は、日本基督教団被災地派遣ボランティアのプログラムで珠洲へ行った。今回は、仮設住宅での傾聴ボランティアのために行ったつもりだった。しかし与えられた仕事は、溝堀りだった。震災後に追い打ちをかけるように起こった水害によって排水溝が埋まり、雨が降る度に庭が水浸しになるそうだ。女子生徒たちは『一箇所の作業でこれだけしか進まないなら、復興に何日、何年必要なのだろう。悲しくなる』とこぼしながら、ひたすら溝を掘った。半日で10mも掘れなかった。翌日から他のボランティアが引き継いでくれた。開通した写真を見た時に、『バトンをつなぐ』という言葉が浮かんだ。『ボランティアは、相手がしてほしいことをすること。ボランティアがストーリーを決めてはいけない』、こんな当たり前のことに今さらながら気づかされた」。
結局、人間の生きているところというのは、自分のストーリーでは決められないし、自分の物語を押し付けることはできない。さらに一人のできることは限られているから、そこを後にして立ち去り、誰かにバトンを渡すしかない。主イエスは言われる。「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。「仕える者」というのは、本来は、礼拝の奉仕者を指す言葉である。わがまま勝手な気分次第でころころと言葉と態度を換えるどこぞの大統領の手下になれ子分になれ、ということではない。礼拝にあってその奉仕とは、出席すること、即ち、その時と場に徹することである。私たちは「自分のストーリー」ではなく、神のストーリーを聞いて、それを生きるのである。主イエスの十字架への道は神の物語であって、それは遥か神のみもと、永遠の生命へと続いている。その道を歩むことが、実に仕える生き方である。「若い人を見るとね、捨てられてないって思えるんだ」。真に仕える者だけが聞くことができる言葉であろう。