「死んでも生きる」ヨハネによる福音書11章17~27節

今日は4月の第四聖日で、日本基督教団の暦では、「労働聖日」と定められている。なぜこの日がそのように定められているのか。それは5月1日の「メーデー」を意識して、そう定められたものであろう。「労働」という営みを覚えることは、決してキリスト教にとって異質なことではない。なぜなら神は6日間の働きと一日の安息の日をもって、創造のみわざを行われ、この世界のすべてを完成された。つまり神は「労働の主」でもある。そして主イエスもまたこう語られる。「父は今に至るまで働いておられる。わたしもまた働くのである」(ヨハネ5章17節)。私たち、人間の労働、働くということも、またこの関わりにおいて成り立っているのであろう。主イエスが働かれるゆえに、私も働くのであると。

そもそも、最初の人アダムは、エデンの園で何もしなくてよかったのでなく、神からちゃんとひとつの務め、働きが与えられていた。その働きとは「土を耕すこと」であった。これは意味深長である。そもそもアダムは土からとられた存在である。土から成った者が、土を耕すとは、即ち「自分自身を耕す」ことに通じる。ここに聖書の人間の労働観、あるいは労働の意味がある。

「労働」というと、すぐに私たちは、何をするか(職業:仕事の内容)を問題にするし、それ以上に報酬を問題にする。確かにそこには、人間が働く大切な意味はあるのだが、そもそも「働く」という言葉には、仕事、職業、何をして働くか、という意味はない。語源としては、「はためく」が、「旗が風に吹かれて、はたはた突然たなびく有様」を表すように、「はたらく」とは、「静止していたものが、動き出す様子」を指す言葉であったようだ。神の創造のみわざの始まりをも彷彿とさせる。だから働くという言葉には、何をするか、とかどのくらい稼げるか、とか、その結果、どんな利益がもたらされるか、というような意味はない。今、動いている事実こそが、「働く」ことの本質であり、「生きていること」の別表現と言ってもいい。それは聖書にも通じる事柄である。

「労働問題」というと、マルクスの専売特許のように感じられる方もいるだろうが、イギリスでは、労働者の健康と尊厳を守る運動は、マルクス主義よりもむしろキリスト教の精神と情熱によって推進されたといえるだろう。たとえば、現在のイギリス労働党を立ち上げた人物は、ケア・ハーディーというスコットランド人であった。ケア・ハーディーは、今からおよそ100年前の英国で労働運動のため孤軍奮闘した人物であるが、当時も、労働組合はあるにはあった。しかし、当時の労働組合は、一部の労働者しか守らなかったのである。ちょうど日本でも、労働組合が正社員しか守らなかったために、今、フリーターと呼ばれる多くの若者が、ワーキングプアとなって社会に放り出されているのが現実である、そんな状況に似た世界が、100年前のイギリスに展開していた。そうした状況に対して、ケア・ハーディーは次のように述べたと言われる。

「富裕で安楽な階級はイエスをわが物にし、イエスの福音をねじ曲げたのだ。キリストの言う王国とは、未来の王国を指すものではなかった。神の王国とは、人間の生活が美しくなり、また神に似た方向へ自由に発展するような物事の条件を、まさにこの地上に打ち立てることを意味している」。主イエスが語られた「神の国」は、遠い将来の観念、ヴィジョンではなく、「神の国は近づいた」と言われるように、「今」どうあるか、「今」どのようにあるべきかに関わる福音なのだ。今を有耶無耶に、ないがしろにして、バラ色の将来を云々することは、まやかしであると。

さて、今日の聖書個所は、ラザロの死と復活を巡る、長い物語の中心部分である。マルタと主イエスが「復活」問答を繰り広げている。そしてこの福音書を記したヨハネの復活理解が、明確になっている部分である。そしてヨハネの教会では、ここでやり取りされている言葉が、信仰告白として唱えられていた節がある。「わたしは復活であり、命である云々」。

教会が誕生して最初の頃から、ヨハネの時代にも、教会では「終末」についての議論が盛んに交わされていた。すぐにも、主イエスが天から戻って来られ(再臨)、この世を裁き、この世は、終わりの日、完成の時を迎える。終末の待望が教会の中心的関心事であった。ところが期待に反して、すぐに終末はやって来ない。どうしたことか。教会の人々はこう考えたのである。「すべての人が救われるように、神は忍耐して裁きの日、終末を遅らせて下っている。だから私たちも、もうしばらく忍耐して待たなければならない」。

ところがそうならば、どんな態度や姿勢で待つべきなのか。「忍耐」というものは、「希望」と繋がっているからこそ、可能なのである。何が希望になるのか。ラザロの死を前に、主イエスはマルタに語る「あなたの兄弟は復活する」。この言葉にマルタは答える。「主よ、終わりの日のよみがえりについては、存じております」。ここに初代教会の人々が、何に慰めを見出し、何を支えに、何を希望として生きていたのかが、明らかに示されているだろう。終末を迎える前に亡くなった人々はどうなるのか。終わりの日には、先に召された人々もすべて主と共によみがえるであろう。決して眠ったままではない。必ず目覚めの時がやって来る。

しかしヨハネはただ将来もたらされるだろう「終末の時」ばかりを強調し、それしか見えなくなってしまうことに、危惧を覚えたのである。皆、終わりの日には、主の恩寵によりよみがえるのだ。今がどうあれ、問題ではない。今、この世に差別があり偏見があっても、ご飯が満足に食べられない人がいても、病気でも医者にかかれない人がいても、子ども達が捨てられても、戦争でたくさんの罪なき人が殺されても、やがて終わりの日には、神がすべてを裁き給う、だから私たちは、ただひたすら待てばよい。しかしそれがキリストの愛につながるのか。

「キリストの言う王国とは、未来の王国を指すものではなかった」とケア・ハーディは喝破した。ヨハネもまた同じことを問うのである。「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。「死んでも生きる、死ぬことはない」。誤解を与えかねない、いささかオーバーな言い方だとも言えるだろう。この言葉は「主イエスの十字架と復活」を通してしか、受け止められないものである。主イエスは死んでよみがえられた方であり、キリストの復活のいのちは、遠い将来ではなく、今、働いているのであり、私の内に表されているのである。私たちは、どんな時も、生きる時も、死ぬときも、イエスと共に生きているのであり、主イエスの復活のいのちを宿しながら、表しながら、今、生きるのである。私たちの生命は、主イエスの復活のいのちに結びついている。

晴佐久昌英神父が「死」についてこう語っている。実は、イエスさまが「死」って呼んでるものは、・・・なんていうんでしょう、私のイメージでは、「何ともつながっていない、完全に孤独な状態」ですね。・・・まさに、ラザロの状態ですよ。ぐるぐる巻きにされて、石のふたに閉ざされた奥での、完全なる孤独状態。誰ともつながっていない。何ともつながっていない。この状態が、「死」なんです。ということは、生きていても、「何ともつながっていないから死んでる」ってことがある。逆に、どんな状態であれ、神の命とつながっていれば、それは「命」なんです。

今日は労働聖日である。100年前、労働運動に邁進したケア・ハーディが見たものは、労働者の「死」であった。労働者が誰にも、何にもつながることがなく、切れ切れにされ放っておかれている。主イエスは「人々(労働者)が、飼う者のいない羊のような有様」を深く憐れまれたというが、ハーディもまた同じであった。その「死」にからめとられているラザロに、主は言われる「ラザロよ、出てきなさい」。私たちもまた、「死」に取り囲まれ、切れ切れに放り出されているようなものだ。そこに主イエスの声が響く「出てきなさい、わたしは復活であり命である」。