「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」、かつて名将の誉れ高かったプロ野球選手、また監督が口にした言葉として知られている。これは元々、松浦静山(まつら・せいざん1760年~1841)に遡るとされる。彼は肥前国平戸藩の藩主で、「心形刀流(しんぎょうとうりゅう)」と呼ばれる剣術流派の達人であり、20年にわたって記された随筆集『甲子夜話(かつしやわ)』278巻を残している。62歳の「甲子(きのえね)」の日からこの随筆を書き始め、旗本の逸話や市井の風俗,政治,外交,軍事など幅広い出来事を自ら没するまで20年にわたって綴っている。この中にこう記される。「予曰く。勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし。問、如何なれば不思議の勝と云う。曰く、道を遵び術を守ときは、其の心必ず勇ならずと雖ども勝ち得る。是心を顧るときは則不思議とす。故に曰ふ。又問、如何なれば不思議の負なしと云ふ。曰、道に背き術に違へれば、然るときは其負疑ひ無し、故に爾に云、客乃伏す」。
「其の心必ず勇ならずと雖ども勝ち得る」と古い武人は語るが、「心勇ならず」とは何事にも動じない、動揺や隙を見せない、あるいは弱さとは無縁のしっかりとした心、ではない、ということである、それが「勝ち」につながる。幸運に恵まれた、相手の方が勝手に失敗してくれた、自滅した、というばかりではなく、「勝つ」という事態が、単に自分の能力や力量を超えているものだ、というのである。もちろん、日々の研鑽はゆめゆめ怠りなく、ではあるのだろうが。それでは「勝利」とは何を指すのか。ただ相手に勝り、敵を打ち負かすということではなかろう。
テモテへの手紙一の最終章である。この手紙は古くから「牧会書簡」と呼びならわされる書物の内の一書である。「牧会」とは簡単に言えば「牧師の仕事」という意味だが、使徒パウロが弟子のテモテに、教会運営上の指示、アドヴァイスと与えるという形式で記されている故に、伝統的にそのように称されて来た。実際、テモテは、実に長い間、パウロに仕え、この使徒の手足となって働いた伝道者である。先輩牧者であるパウロから、いろいろ指示やアドヴァイスを受けたことだろう。いろいろに臨床的な訓練も受けただろう、投獄され身体の自由を奪われ、さらに病気で倒れ伏すなど、よんどころない事情を抱える師の名代として、牧会の現場に急遽はせ参じることも、しばしばあったようだ。「何事につけ、先達はあらまほしきことかな」とはいうものの、このパウロと一緒に仕事をした、それだけでも偉いとほめてあげたくなる。このあくの強い使徒と、長年、共に仕事をして来た、というだけでつくづく頭が下がる思いがする。
もっとも、この手紙が記されたのは、パウロの時代からは、40~50年程後の時代であると考えられている。パウロの時代は、ヘレニズムの世界に、教会がまだ誕生したばかり、いわば赤子の頃である。しかし、この手紙が書かれた時代は、教会も数を増し、ある程度、規模も大きくなり、教会に集う人々の数も、随分増えている、というパウロの次世代を背景にしている。
12節「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」。私たちは例外なく生きて行く時に、いろいろな悩みや葛藤、困難や衝突に直面し、立ち往生をしながら何とか歩んでいくだろう。のほほんとその日暮らしに生きることはできない相談である。主イエスを信じ、信仰を持って生きるのも、全て委ねてとは言うものの、そこには「戦い」と呼べる事態が生じてくるのは、必然の理であるだろう。仕事や人間関係と折り合いを付け、知恵を用いながら暮らすことになる。とりわけ新約の時代には「迫害」の中で、信仰を堅持しつつ生きるということ、皆さんも多かれ少なかれ、内と外の「戦い」を経験しているはずである。やはり、寂しいことだが、いつの間にか、教会から姿を消した兄弟姉妹がいる、というのが今の時代だけでなく、この手紙の執筆時代も同じであったのだろう。
ところで「戦い」、「立派に」、「戦い抜く」というようなきつい言葉から、皆さん方はどんな理解、受け止めをするだろうか。「戦い」とは「信仰の戦い」だというのだから、それはどのようなものか。それ以前に、そもそも信仰とは、信じて生きるとは「戦い」というような営みであるのか。やはり「翻訳」というものの難しさ、あるいは作業にあたる者の恣意的な読み込み、意識の投影を感じざるを得ない。
少し直訳して見よう。「神(キリスト)へ向かう誠実な競争をよく走り、永遠の生命をつかみなさい」。ここで用いられている用語は、「戦い」と訳すると誤解される恐れがある。まるで戦争のように、すべての敵を打ち倒しなぎ倒して(殺して)勝利をつかめ、というイメージを生じさせるきらいがある。これが極端に強調された行きつく先はテロリズムである。この用語は、本来スポーツの「競技、競争」を表すものである。『神学用語辞典』(キッテル)では、「この語は(スポーツ)競技との関わりで用いられる」ときちんと注釈をしている。だからものの喩えとして聞かなければならない。
さらに「立派に」と訳している語も、普通の「よい」という単語である。「立派」と訳すと、誰かからの星3つの評価という意味合いが強くなる。物怖じせず、大舞台に動ぜず、最後まであきらめず、勇敢な態度で試合に臨んだ、ふるまった、という具合に、今も評論家のコメントが付せられるように。ところがこの「よい」は、「自分にできることをした」、「安易に手は抜かなかった」という程度の「よい」である。もっとも「自分の力以上のこと」等、どんな人間にもできないのであるが。
「信仰」即ち、主イエスを信じて生きる営みを、「競技」に喩えて説明するのを最初にした人は、使徒パウロである。それは「徒競走、マラソン」あるいは「拳闘」といった競技が、パウロの時代に一般的で、観衆に人気があり、そういう話題に興味惹かれる人が多かったからだろう。現在でもニュースの中身で、事件や事故の報道と共に、必ずスポーツの話題が提供されるのは、時代を超えて変わらぬ人間の性なのであろう。
但し、パウロは衆人の耳目を引く話題だから、「競技」を話題にしているのではない。人々が「競技」を行い、それを観戦するそもそもの動機が、宗教に根拠を持っていたからなのである。古代ギリシャでは、部族の長など社会的な地位のある人物が亡くなると、死者を追悼する競技会を催す習わしがあった。社会的な身分の高い人物は身体的な能力に秀でていたことから、 葬送競技を催すことで魂が安まると信じられていたという。簡単に言えば、人間たちが競技をしているのを見て、神々がこれを楽しみ、死者もまたその魂が慰められる、と考えたのである。だから「信仰」を「競技」に喩えるのは、ギリシア・ヘレニズム世界で成長したパウロにとっては、極めて自然な感覚だったと言えるだろう。
私たちが「誠実で、良い競争をする」ことの目的が、14節に記される、「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい」。「おちどなく、非難されないように」と勧められるが、これはそもそも誰が、どのように非難するのか。世の人が、「キリストを信じているというのに、あのざまかよ」、という具合に悪口を言われないようにか。まあ何をしても、どんなに生きても、他人は勝手なことを言うだろう。そもそも他人の評価と信仰とは、一切関係はない。それでは神から非難されるのか、「お前の無様さに、見損なった」とばかりに。言われてもかまわないが、ただ一言、言わせてもらえれば、そんな人間だから、主イエスのみもとに行ったのであって、自分で自分の事を何とか何とか出来るなら、主イエスも信仰も必要はない。
「落ち度なく、非難されないように」と,汲汲とするのは、実は他人ではない、神でもない、あなたであり、私自身なのだ。「掟」とはただ一つ、「愛」しかも「主イエスの愛」である、そこから離れたら、何が私たちに何が生じるか、「落ち度なく、非難されないように」とばかり、誰にも負けないで、ただ一番になるように、順番ばかり汲汲として生きるようになる。それでは信じて生きて、楽しくない。
オリンピックの金メダル獲得の熾烈な戦いの有様とは裏腹に、こんな競争もあることを知りたい。公園で幼い子どもが転び、泣き出した。そこへ別の子が駆け寄って、一緒に腹ばいになり笑いかける。泣いていた子はつられて笑顔に。しばらくして「起きようね」「うん」。2人は立ち上がり手をつないで歩いていく。
ある親御さんが、こんな家族の一コマを語っていた。うちの子は鈍くさくて、運動会の徒競走ではいつもびりばかり、内心、歯がゆく感じていた。ある運動会の時、徒競走で走った際に、隣の子がつまづいて転んだのだという。やはりそこで思った、「しめた、今回は、うちの子はびりではない」。するとそこで何が起こったか。その子は取って返して転んだ子のところに走り寄って行って、助け起こして、一緒にまた二人で走り始めたのだという。ゴールまで来ると、その子は、転んだ子の背中を押して、先にゴールさせ、自分はと言えば、いつものようにびりでゴールしたという。親御さんはその時思ったそうだ、「ああ、これが子どもの競争なのだ」と。
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」。そもそも「永遠の命」とは、人間が自分の力によって獲得できるものではなく、ただ神の恵みと慈しみによって、与えられる栄冠,賞である。言葉を換えれば、神が永遠であるように、朽ちず滅びず、時を経ても変わりないように、変わることのない価値である。神の永遠にふさわしい走りがあるとしたら、神の喜ばれるゴールテープの切り方があるとしたら、それがどのようなものであるかを、深く思いめぐらせたい。少なくとも、金メダルや一等賞が、神のくださる永遠の生命につながってはいないだろう。