祈祷会・聖書の学び フィリピの信徒への手紙4章2~9節

「笑いは年齢と共に減ってきます。ある研究結果によると、小学生くらいは1日平均300回笑いますが、20歳では1日平均20回と激減。70代では1日平均たったの2回になってしまいます。よく笑うといわれている大阪の、とある企業の従業員1600人を対象とし、笑いの頻度を男女別、年代別に比較調査してみました。その結果、女性では、毎日声を出して笑う割合が、20歳代64%、40歳代52%、50歳代32%と、加齢によって減少するというデータが。一方男性は、20歳代50%、40歳代36%、50歳代33%という結果に。また、40歳代以上の男性は、週に1度も声に出して笑わない人が2割以上もいたそうです」(アンファー・からだエイジング)。

「はしが転がってもおかしい年頃」という「ものの喩え」があるが、子どもがよく笑うのに比して、大人は笑わない、という傾向があるという。物事に対して意識的無意識的に新鮮さを感じられなくなる、ことが原因なのだろうか、人間として古びてしまうと、笑う能力も低下するのだろうか、「笑い」を巡って、いろいろなことを思和わされる。とりわけ、自分自身が一日に何度くらい笑っているのか、我が身のこととして、顧るのである。「笑い」について「難しい顔」で考えることほど、不似合いなことはないのだが。

フィリピの信徒への手紙は、別名「喜びの手紙」と呼び慣わされるように、「喜べ」というメッセージが繰り返される書簡である。「喜べ」という勧めがなされる、ということはやはり、パウロを含めて、教会の人々に「喜び」が喪われているからなのだろう。もし満ちあふれているなら、あえてそう勧める理由はない。

余談ながら、福音書に、主イエスの「喜怒哀楽」についてさまざまな描写がなされているが、その内、「笑う」という表現がまったく出てこないのは、どういう訳だろう。旧約聖書には、詩2編4節を始めとして、「神が笑う」という表現が散見される。人間の高慢に対して、「嘲り笑う」の意味で語られるのだが、主イエスに対して「笑う」と記されていないのは、どうしてなのか。まったく笑わない方だったのか、あるいは「笑う」などという余りに人間的な感情を記すのは、不敬虔だという「忖度」が働いたのか。あるいはよく笑う方だったので、あえて記さなくても十分だと判断されたのか、皆さんはどれがその理由だと思われるか。

今日の個所では、4節に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と呼びかけられ、2度繰り返して、「喜べ」が語られる。前段の文章から読み進めると、いささか唐突な印象を受ける。その前の節、2節以下には、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」という記述がみられる。フィリピ教会内の非常に具体的でナイーブで、ある意味深刻な情報である。どういうことか、「主において同じ思いを抱きなさい」の文言から、どうやら教会員のふたり、しかもどちらも過去の教会形成のわざに、大層尽力した功労者であったようだが、理由は不明だが、仲違いをして不仲になってしまっている。その情報が、今は遠く離れて獄中にいるパウロにまで、教会内のやっかいな悩みとして伝えられた、という次第らしい。「この二人の婦人を支えてあげてください」と使徒は言うのだが、どのように支えればよいのだろう。

児童施設、幼稚園で働かれる先生方の生き生きした姿に、感心させられることは多いが、子どもが「けんか」を始めた時の対応は、見事だといつも舌を巻く。子どもの感情がぶつかったら、すぐに目を留めて間に入り、はっきり言う「けんかはしません!」、そう言われると、子どもたちの心の嵐が静まるのである。放って置けば、その嵐は大きなうねりとなって、いつか手が付けられないくらいの、大波となる。大人になったらもう、すぐにそのように間に入って、けんかを止めてくれる人はいない。

このふたりの仲違いに対して、裁判所の法廷のように、どちらが良いか悪いか、その正義を論ったところで、空しい結果しかもたらされないであろう。どちらの肩を持つにしても、叱責や説得をしたところで、人間が心にこうと思い込み、かたくなになっているのだから、ある意味為す術はない。どちらも確信的に、真面目に、頑張っているのだから、手抜きやごまかし、偽りならば、後ろめたい思いにもなるだろうが、正義感からの信念は、他からは留め得ない。「悪魔」も一筋縄ではいかないが、「善魔」はさらに厄介である。

こうした事情の中で、パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と勧めるのである。問題の根は、ふたりの仲だけのことに留まらず、教会において、そこに集う人たちすべてにおいて、「喜び」が喪われてしまっていることではないか。真面目に礼拝が守られ、真摯なみ言葉が語られ、熱心な奉仕や献身が行われていても、教会が健やかだとは限らない、健やかどころか病んでいる、という状況がある。それは「真面目に喜びがない」という深刻な事態である。これに対して、何ができるのか。

この手紙を基に書かれた、ある物語がこの国の人びとにも良く知られている。エレナ・ポーター著『少女パレアナ』、主人公パレアナはどんな苦境や逆境の中でも、ある秘訣で、自らの明るさを保ち、心の優しさと平安を取り戻して行く。その「ある秘訣」というのは、牧師だった父親から常々教えられた「喜びの遊び(よかった探し)」と名付けられたゲームである。少女はこのゲームをこう説明している。「ええ、『なんでも喜ぶ』ゲームなの。…何でも喜ぶことなのよ。喜ぶことを、何の中からでも探すのよ、なんであってもね」。パレアナは、どんなに悲しいことや辛いことがあっても、父から教えられたこのゲームを思い出し、どんなことの中にも再びを見つけ出そうとする。そして喜びを見つけては、明るさをとり戻す。彼女は友達にもこれを教え、ゲームは、彼女が住む町全体にどんどん広がり、人々が喜びをさがしては、明るさを取り戻し、少しずつ変えられて行くというストーリーである。

「喜びの力」が人に何をもたらすか、もしこれを不審に思うなら、実際、彼女の言うように、生きて試して見たらいいのではないか。身寄りのない少女を邪険に扱う偏屈なパレー伯母さんの頑な心をも、それが解きほぐすのである。おそらく喜びは、人間から生まれるのではなく、神から賜物として与えられるシンプルなギフトなのだろう。そして主イエスに「笑う」描写がないのは、主イエスがその喜びの主であることを、当然のものとして告げているからだろう。主にお会いした人は、喜びの人と変えられるのである。それは出会いの中で起こるのである。