昔、小さい頃、なじみの八百屋に行くのが苦手だった。その店のおばさんが、私の顔を見える「こっちへおいて」と呼んで、耳垢の掃除をしてくれるのである。「おばちゃんは上手いから,痛くないだろ」というのだが、耳掃除でなく耳を強く引っ張られるので、そちらの方が痛かった。今も耳掃除で悩まされる人は多いのだろう。最近では、耳掃除は不要、しかし聞こえが悪くなったら、耳鼻咽喉科で取ってもらいなさい、と勧められている。八百屋のおばちゃんでは、だめらしい。
昔、読んだ岩波の絵本に『ききみみずきん』と題された物語の記憶がある。元々は日本古来の民話で、『夕鶴』の木下順二氏の再話、これに初山滋氏が絵を添えるという、今にして思えば贅沢な絵本である。荷役で生計を立てる藤六が、激しい吹き降りの中、荷物運びの仕事に出かけようとすると、高齢で病気の母親が言う「これを被ってお行き」、渡されたものは死んだおとっつあんが被っていたという、古いずきんである。暫くすると天気が回復し、ひと汗かいたので休んでいると、鳥のさえずりが聞こえるのだが、汗を拭くのにずきんをずらすと、そのさえずりが人の声のように、かわいい言葉として聞こえる。その不思議なずきんを被り、藤六は色々な生き物たちの言葉を聞いて楽しむ。そうしている内に、長者の娘が重病であることを知らされる。病気は重く、程なくその娘は身罷るだろう、と耳にする。そこで長者の屋敷に赴いた若者は、「ききみみずきん」を用いて、屋敷の庭の木々が夜中に交わす、低くくぐもったかすかな声、言葉を聞く。それで娘の病は癒される、そいう筋書きである。元々の民話は、親孝行を施したこの貧しい若者のついの幸いを語り、めでたしめでたしと物語が閉じられるのだが、さすが木下氏、そこにひとひねり加える。病気の母親も病が癒され、母親もまたそのずきんを被り、鳥たちの美しい歌声を、いつまでも飽きずに聞いている。まことの幸いがどこにあるかを問うている。
さて、いわゆる「ことば」というものによって、意思や感情を音声で伝達するのは人間だけが持つ能力ではないらしい、と最近の研究が明らかにしている。例えば鳥のシジュウカラはその鳴き声で、「集まれ」「ヘビだ」などと会話をしているようなのだ。鳴き方には地域性もあるという。つまり方言を使って生活しているなど、人間も顔負けである。他の生き物も、人間の「ことば」に相当するものによって、巧みにコミュニケーションを行っていることが知られている。最近では、植物もことばを持ち、会話をしているという研究もなされているようだ。
そこからすると、『ききみみずきん』で語られる物語も、決して「おとぎばなし」ではなくて極めて、この自然界のリアリティを示していると言えるだろうし、昔の人はちゃんとそれを理解していたし、生きとし生けるものの「ことば」をしっかり聞き取っていたのではないか、という思いにもなる。そして「ことば」がテーマの物語、『夕鶴』そして『ききみみずきん』を世に送った著者の鋭い問いかけがあるように思う。「あなたがたは、ことばをちゃんと聞いているのか」。
今日はローマの信徒への手紙からお話をする。ローマ書はパウロの手紙の中で最も長く、最も気合が入った書物である。宣教旅行を何度も繰り返したこの使徒にとって、やはりついの目標とも言える場所は、ローマであった。同じ信仰の輩とはいえ、後ろ盾のいない、彼をよく知る知り合いもいない場所で、それなりに遇してもらうためにはどうするか。普通ならば有力者(一番はエルサレム教会の使徒たち、十二弟子)の保証や推薦状を持参するところである。ところが彼は自分のプライドもあって、それに頼ろうとはしなかった。そこで自己紹介文を書いて、ローマ教会の人々に受け入れてもらおうとした。だから手紙の長さはもちろん、語りにとんでもなく気合が入っているので、何回読んでも難解だ、となるのだが、今日の個所は実に論旨明確で分かりやすい。そして手紙の中でもパウロが最も言いたい、力の籠っている個所なのである。
ここまで彼は長々と論述してきた。行いで救われるなら、キリストなどいなくてもいいではないか。人間の行いでは、とうてい天国には行けないから、主イエスが十字架に付いて救いの道を開いて下さったのではないか。だから私たちはその救いを素直に受け入れて、約束をただ信じるしかない。有名な「信仰義認」論の展開である。そしてここに至って、信じるとはどういうことか、またどのようにしたら信じることができるのかが、ひじょうに具体的に語られるのである。
10節「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」、ローマ書の中で最も有名な言葉のひとつである。洗礼の根拠ともされるみ言葉でもあるが、洗礼の時ばかりでなく、キリスト者はこのようにして人生の道を、繰り返し繰り返し歩むのである。ただこの節を、著者が非常にデリケートな言葉使いをしていることに注目したい。直訳するとこうなる「心で信じられて義に至り、口で告白されて救いに至る」。文法的に、受身形が多用されているのである。もっと訳せば「心で信じさせられて、義に至らしめられ、口で告白させられて、救いに至らしめられる」というのである。パウロの救いの考え方は、徹底的に受身形で表現される。パウロにとって「人間のわざ、行為」は前に出る幕がないのである。ただただ神が主体であって、その神が恵みによって私の人生、私の心に働いて下さり、信じるという出来事が起こり、その神の恵みにただただアーメンと応答する、それが信仰であり、救いへの道なのだと言う。人間の努力や人間の誠実に対して、神が恵みを与えて下さるのではない。信じない者のために、つまり恩知らずな不実な者のためにキリストが十字架で苦しみ、血を流されたのである、と。
パウロはこの神の恵みのみわざを、旧約の申命記のみ言葉から解き明かそうとする。8節「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。パウロは非常に自由におおらかに旧約の言葉を引用する。神のみ言葉は、決してあなたから遠いものではない。遥か天の彼方に行って、くまなく探して、汗水たらして獲得するようなものではない。あなたの手の届くところ、あなたのすぐそばに、何となれば、既にあなたの心の中に注いでくださっている。さらにあなたの口にもみ言葉を置いて下さっている。それを味わい知りなさいというのである。主イエスも神の国について、同じように語って下さった。「実に、神の国は、あなたがたの間にある」。
「心で信じて義とされ、口で告白して救われる」、あるキリスト者が重い病床の中でこう歌った。「わがうめきよ、わが讃美の歌となれ、わが苦しい息よ、わが信仰の告白となれ、わが涙よ、わが歌となれ、主をほめまつるわが歌となれ、わが病む肉体から発する、すべての吐息よ、呼吸困難よ、咳よ、主を讃美せよ、わが熱よ、汗よ、わが息よ、最後まで、主をほめたたえてあれ」。この方は、私たちの口から発する意味ある言葉だけが、神への応答の言葉、信仰告白の言葉であるとは語らない。うめきや苦しい息も、熱も汗も涙も、すべて神への賛美、応答、信仰の告白であると歌う。人間には聞き取ることのできないことばも、心のうめきを聞いてくださる方がいる。そしてそれをまことの祈りとして、神に届けて下さる方、聖霊がおられるのである。だから、たとえ老いや病気や絶望で自分自身を失うことがあっても、信仰のことばは決して失われることがない。その言葉にならないことばすらも、聞いて下さる方があるのだから。
さて、み言葉は私たちの近くにある、手を伸ばせばそこにあると彼は語るが、どのように今、神はみ言葉を語ってくださるのか、私たちはそれをどう聞くのか。最近Eテレの「こころの時代」が「ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある」と題する特集番組を放映している。この著者の本は、『夜と霧』がつとに有名であるが、この本を出版している出版社は、これのおかげでつぶれない、とも噂されている。彼の苦難の生涯の中で、こうした人生の一コマが紹介されていた。「大学を卒業して程なく、『ロゴセラピー(言葉による癒し)』を提唱する新進気鋭の精神医学者として頭角を現してきた、その矢先に、ナチス・ドイツが侵攻し、ユダヤ人への圧迫と迫害が隣国オーストリア・ウイーンにも及んできた。家族の収容所送致が間もないことが予測される状況で、彼はアメリカへの亡命を画策する。かの地で自己の研鑽の結実である『ロゴセラピー』を普及させたい狙いもあった。ところが亡命ビザの許可が下りたのは自分一人であった。自分だけが渡米すれば、家族はみな犠牲になるだろう、彼はジレンマに陥る。彼は真剣に神に祈った『しるしを見せてください』と。その日の勤務を済ませ、夜に帰宅すると、ラジオの上に見知らぬ石が置かれており、何やらその石(がれき)には文字らしいものも刻まれている。見慣れないものなので父親に聴くと、今日、ナチスの過激グループが、シナゴグを攻撃した、会堂の天井が崩れ、自分の目の前にこの石が降って来たので、持ってきたというのである。父親が言う『これは会堂の中に据えられていた特別な石で、十戒が刻まれていたものだ。そしてとりわけこの部分は他の戒めには語られない特別なことが記されているのだ』。何が書かれていたのか、それは『汝の父母を敬え』というみ言葉、これで私の心は定まった」。彼はアメリカ行きを断念して、家族と共にいることを選ぶのである。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。主イエスはことばとして、私たちと共におられる。それはすぐ手を伸ばせば、ふれられるところに、聞くことができる所に、自らを表されるのである。たとえ、それが苦しみや絶望、病の中、危機の中であっても。