祈祷会・聖書の学び ヘブライ人への手紙4章11~16節

先日、病院で消化器の内視鏡検査を受けた。現在の検査器具の進歩は目覚ましく、咽喉から食道、胃から十二指腸までリアルタイムで体内の映像が、逐次映し出されて行く。受診しながら、実際に自分の目で、自身の身体内部の様子を、くっきりとした映像で、つぶさに観察できるのである。但し、いくら内視鏡が小型化されたとはいえ、異物を無理やりに咽喉に押し込まれる訳であるから、やはり苦しい、大げさに言えば、息も絶え絶えに涙しながら、涎も垂らしながら、検査を受けるという有様になる。

今回は、「麻酔をかけて検査をします」とのことで、内心、「楽できる」と思ったのだが、担当の医師が告げるには、「血圧が低いので、麻酔の量が難しい、呼吸が停まると大変ですから」。麻酔で痛みは取り除かれ、苦痛からは逃れられるが、呼吸まで停止するとなると、ちと厄介である。眠っているうちに、無事に検査は終わったが、生命の働きの微妙さ、生きていることの絶妙さを、改めて知る縁となった次第である。

今日の聖書個所12節「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。「神の言葉」がいかなるものか、鋭利な刃物に喩えて語られている。「精神と霊、関節と骨髄」という細かく語彙をちりばめた表現は、解剖学の解説を聞いているような気持になる。「精神」とは「呼吸機能」のこと、片や「霊」は「息」という用語であり、「呼吸機能から息を切り離す」という言い回しだから、「息の根を止める」という意味合いになろうか。「関節と骨髄」とは、屠った動物の身体を割いて、可食部と不要な部分に切り分けるという、家畜の解体が示唆されている。

この文章は、家畜を屠って食料とすることが、日常的でごく身近なものであるとの前提と理解すべきであろう。もちろん家畜は、一家の大切な財産であるから、むやみやたらに屠殺することはないが、それでも「特別な時」の慣わしとして、一家を上げて、飼われている家畜の咽喉を割いて屠り、解体する作業を行うこともあっただろう。

現代は様々な生活の営みが高度に細分化、分業化されているために、個々の仕事が不可視なものとなって、全体が見え難いない有様となっている。自分で食べる食べ物、肉や魚、野菜等も、ほとんど商品としてパック詰めされ、陳列されているものを購入するのが、当たり前になっている。するとそれらはすべて単なる「もの」に過ぎないのである。だからパック詰めされた商品からその背後にある生命の犠牲まで、なかなか考えが及ばなくなっているのが現実である。

例えば、子どもたちに「鶏」を描かせると、四本足の姿の絵が描かれる。つまり実際に生きて動く鶏の姿を目にしたことがない。身近な動物にひどい悪戯や仕打ちをする、これらの根源に、生きている生命の実感が欠如しているからと評される。それが周囲の人々や、自分自身の生命への軽視につながるとすれば、深刻な問題である。それで生命を考える教育の一環として、自らの手で、生きている鶏を絞めて屠り、解体し、調理し、食べる、という実践授業を行う試みも耳にするが、これもまた喧しい議論を呼ぶこととなる。子どもたちが、涙を離して鶏を調理し、食べる姿に、残酷すぎると批判する向きもある。

いささか私たちの目からすれば、直な喩えではあるが、「神の言葉」という極めて観念的な事柄を、何とかリアルに実感を持って伝えたい。受け止めてほしい、という思いがこうした文章の背後には潜んでいる。確かにものの喩えではあるのだが、実に生々しくリアルな説明である。こうした生活に根差した理解は、決してグロテスクと言って退けてはならないだろう。

そして、ここから私たちの信仰の問題が解き明かされるのである。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。ここで、2つの事柄が語られていることに注目したい。ひとつは神の前では、すべてのものが顕わであり、隠すことのできるものは、何ひとつない。つまり神の目には、良いものも悪いものも、すべてあらゆる事柄が隠しようがないのである。即ち「ありのままの私」として神の前に立つしかない、と言うのである。「ありのまま」を怖れるか、気恥ずかしいか、やばいと感じるか、あるいは、誇りを持って、胸を張って、であろうか。あらゆる感情や思いがないまぜになるのが、「ありのまま」ということであろう。但し、私たちが、真に「ありのまま」の状態でいられるのは、おそらく「神の前」を措いて他にないだろう。それ程、他人の目、自分の目を気にしながら生きているのであるから。神の前に立つとは、実に「ありのまま」の存在として、自分が解き放たれることを意味する。

それならば「神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」とはどういう意味なのか。すべて神のみ前に明らかであり、ありのままの私であるからば、いかなる「申し開き」のもはや必要ないではないか。ここで「神の言葉」が「鋭い刃物」のようであるということの意味が、明らかにされるのである。

私たちは自分の人生を生きながら、自分がどのような人間であるのか、どのような価値と意味を持っているのか、なぜ生まれ、なぜ生きるのか、全く分からないのである。それでいろいろなことに手を出して、自分自身を確かめようとするのだが、それで見えてくるのは、得てして自分のだめさ加減なのである。そういう暗中模索の積み重ねの中で、毎日が過ぎて行くことになる。その私の人生を切り裂いて、光を照らし、その深奥までも極めるものこそが、「神の言葉」なのである。

「神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」とみ言葉は続く。即ち「神のことば」は、肉となって、まことの人、主イエスとして、私たちと出会われるのである。主イエスは、「私たちの弱さを同様に感じられる方」として私たちのところにやって来られる、という。それは日本刀のような鋭利な刃物以上に深く切り裂く「愛の刃物」と呼べるであろう。それは私たちの心の奥深くまでも、貫き通すのである。普通の刃物は、身体を断ち切り生命を奪うものとして機能するのだが、主イエスの愛刃は、それとは逆に、私たちに新しい生命を豊かに与え、息づかせるであろう。