梅雨明け前から、すでに酷暑、猛暑の気候である。梅雨のうっとうしい雨がちの季節でも、人は生活の中に楽しみを見いだすもので、雨の中の光の乱舞とも言うべきホタルを眺めて、蒸し暑い長雨の季節の良い思い出となっている方もあるだろう。
先週に引き続いて(アジア・アフリカ礼拝の月であるから)、中村哲氏のアーカイブスから、ひとつまた印象的な文章を紹介したい。著書『辺境で診る 辺境から見る』(石風社・2003年刊)より「ペシャワールのホタル」と題されている文章。この題名を見て、「えっ、ペシャワールにもホタルがいるの?」と思われた方は多いだろう。どうやら生息しているらしいのだ。「私の少年時代の夢は一山を所有して、虫たちと暮らすことだった。これはわがファーブル先生の影響である。その後いろんなことがあって夢は実現せず、虫の観察はどれもこれも中途半端に終わって、モノにならなかった」。最初、珍しい蝶が見られるかもしれないという(よこしまな?)動機で、JOCSの派遣医師としてペシャワールに赴いた、と本音を語られた中村氏らしい想い出である。「ペシャワールでホタルを見たときの感激が忘れられない。ゲンジボタルの幼虫は清流に棲むから、あんな酷暑の沙漠にはいないと決めつけていた。赴任して五年後のある夏の夜、庭に出ていると、ハエのようなものが数匹、空中を漂うように舞っている。それが穏やかに点滅して光る。ライトのせいだと思ったが、いかにもホタルらしく見えるので、これも一興、日本の思い出でも嗅ごうかと近寄り、どんな虫か見ようとした。ところが仰天、まさしくホタルではないか」。「いないと決めつけていた」、中村氏も一介の人間である。人はやはり、先入観で決めつけて、なかなか本当のものを本当と受け止めることが出来ないものだ。「正確な同定はしていないが、おそらくヘイケボタルか、その近種である。日本の同種は泥水の中にもいて、幼虫は陸に棲む。おそらく庭に流れる排水溝で発生したものらしい。人間は見ようとするものだけしか見えない。 その後気をつけていると、いるわいるわ、おかげで暑い夏夜の退屈しのぎが増えた」。「人間は見ようとするものだけしか見えない」、「ハエのようなものが数匹、空中を漂うように舞っている」、明るい光の下では、蛍はまるでハエのような虫である。昔、ハエは、今頃の季節には、家の中も外でも、ブンブン何匹も飛んでいたし、ハエトリガミが真っ黒になるほどくっついていた。そのハエのようなおじゃま虫が、闇の中では幻想的に光輝くのである。しかも排水溝の中で生まれ育ったというのである。自然とはまことに不思議なものだ。そしてこの小さな虫のおかげで、この国と遥かなペシャワールの距離が近くなったように感じられるから、不思議である。
コリント前書12章からお話をする。パウロ神学の重要な論点のひとつは、「からだ」であると指摘される。パウロは信仰を「精神論」として観念的にのみ理解したのではなく、「からだ(肉体)」と関わる具体的な理解をしていたのだという。「復活」についても、ただ「魂」の不死ではなく、「からだ」をも含めた問題なのである。パウロにとって、教会もまた施設や制度ではなく、「キリストのからだ」として生命をもって生きているのである。今日の個所では、「からだ」としての「教会」について、議論が展開されている。
この手紙の書き出し、冒頭部分に、コリント教会内での分裂、あるいは派閥争いがあることを使徒は記している。それを彼にご注進した教会員がいたのだろう。この訴えに応えてパウロはこの手紙を記し書き送ったという状況が見て取れる。人間が集まるところでは常態であるともいえる「分裂」や「派閥」は、教会においてもやはり避けて通れない道かもしれない。しかし、だから「仕方がない」と開き直っては、余りに教会として哀しいというべきだろうか。
「教会はひとつの体」だとパウロは言う。キリストは神のひとり子であって、人間の勝手な都合によって、いくつにも分割できるものではない。「教会はキリストの体」。ところが人間ひとり一人には皆、外的内的に個性があり違いがあり、それが人間の価値でもある。もし違いを認めず、ひとりを許さないとするなら、それは軍隊や政治結社ではあっても、もはや「教会」とは呼べないだろう。すると集団と個人、みんなとひとりをどう結び合せるかが重要な課題となろう。そこでパウロは「からだ」の喩えによって、教会のあり方を論じるのである。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」。分裂と分断のさ中にあるコリント教会に、パウロは「教会はひとつの体であり、ひとり一人の信仰者は体を構成する部分(原文では「肢体、体の一部分」)であり、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合って」生きている、そうでないと生きられないのだと主張するのである。特に、この議論で、パウロの優れた感覚は22節に最も良く表されている。即ち「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。
しかし「弱く見える部分が必要であり、大切にされるべき」と主張がなされると、それに対する反応として、「あらゆる人が、生まれながらにして、健康で文化的なくらしができるような社会」とは美しい理念であろうが、やはり「頑張った人こそが報われる社会であるべき」とか、「人間は平等であるべきと言いながら、一部の人だけが(被差別者、弱者、マイノリティ)が優遇されているのはおかしい」などという妬みと嫉みに満ちた、グロテスクな考え方も生まれてくるのである。
このパラグラフでは、非常に翻訳するのが難しい章句が含まれており、それをどう訳すのかが鋭く問われるのだが、やはり翻訳者の先入観が色濃く反映してしまうようである。23節「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません」。ここで「恰好悪い」という訳語が当られているが、文の前半は、「価値がない」という用語なので、「姿かたち」つまり外見についてはまったく問題にされていない。「見苦しい部分」と訳されている語は、「格好悪い」という用語が使われており、こちらは外見に関わる事柄への言及である。但し「見苦しい」と「格好が悪い」では大分、印象がことなる。この用語は必ずしも外見だけを指す言葉ではない。「格好、悪い生き方」という場合、「愚直な」という肯定的意味合いもあるが、「見苦しい生き方」ならば、「誰かに後ろ指を指される」ような否定的ものとなってしまう。
ここで新共同訳の翻訳上の問題は、「格好悪い部分を覆って、格好よく」また「見苦しい部分をもっと見栄えよく」しないとだめだ、という風に、読み手を誤解させる危険性である。つまり「ルッキズム」の迎合につながる恐れがある。人間見た目がすべて、「格好の悪い」ところはそのままではだめで、注意し気を遣い、改善しなければ、人生が良い方向に切り開かれませんよ、という具合である。さらに弱い部分が強くならなければ、弱い人も弱いままではだめだ、というニュアンスを与えてしまうのではないか。原文には「覆って」とか「見栄えよく」という用語は用いられていない。端的に、体の中の「弱い部分」、「恰好悪い部分」には、何の条件も付けず「価値がある」とパウロは断言するのである。
原文に即して訳すなら「からだの中に無価値に見えるところを、私たちはますます(いっそう)価値があると受け止める。私たちの中の格好悪い部分は実はよい姿を持っている。格好悪い部分に価値を置いて、体をひとつのものとするのである」。弱い部分があるからこそ、調和と和らぎがもたらされる。もし強い部分だけだったら、競争、勝ち負けだけですべて人間が、生命が判断され、取捨選択(トリアージ)されるだろう。
最初に紹介した「ペシャワールのホタル」、さらにこう続く、「私が少年時代、夏の夜は電灯の下にいるだけで、さまざまな昆虫たちが家に飛んできた。虫たちの夜の饗宴は消灯まで続き、カナブンなどのコガネムシ類がブーンと音立てて電灯をめぐり、カンカンとぶつかる光景はご記憶の方も多いだろう。私は眠るのが惜しかった。当時は蚊帳をつって、窓を開けっ放しにして眠っていた」。私たちにも懐かしい記憶を蘇らせ、思い起こさせるような光景、「(小さな虫がたくさん飛んできた夏の宵)、私は眠るのが惜しかった」。この想い出をノスタルジアだと切り捨てるか。虫のように小さな存在も、そこに居る(飛び回る)生きている意味があり、そこに置かれる価値があったとつくづく思い返されるような風情である。「異国のホタルで日本を懐古するのは、いくぶんつらいものがある」と記して文章は閉じられるが、こういうつらさと、人生の本当は、実につながっているのではないか。
主イエスの公生涯は、決して「格好の良い」生き方ではなかった。それは十字架に向かう道であり、人々に捨てられ、弟子たちからも見放され、「十字架に付けよ」と皆から罵倒され、手足を釘付けにされて、血を流し、絶望の叫びを上げてこの世の生涯を閉じられる歩みであった。その生涯を思い起こして、「格好悪いものには、価値がある」とパウロは断じる、このことばは、実に彼の十字架の神学がら紡ぎ出されている。私たちもこの主イエスの、人から見捨てられた惨めでつらいお姿にこそ、神の救いの御手をみるのである。小さなほたる一匹からも、神の恵みの内にそこに置かれていることを知るのである。